huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

人間未満

私は汽車を見るのが嫌いであった。特別ゴトンゴトンという貨物列車が嫌いであった。線路を見るのは切なかった。目当てのない、そして涯のない、無限につづく私の行路を見るような気がするから。
――白痴 いずこへ


私のように周囲に頼りのない人間は、常日頃から「此処にいてもいい理由」を求め続けている。
私のように周囲に頼りのない人間は、常日頃から「持てないものを尊く」捉え続けている。
私のように周囲に頼りの無い人間は、常日頃から「ちゃんとした人間になりたい」と思っている。


エピグラフに使用した白痴の文言の中に次のような言葉がある。


「年齢と仕事の空虚を考えてその頃は血を吐くような悲しさがあった。私はいったいどこへ行くのだろう」


私は玉藻ちゃんと同じく誰かが引いたレールの上でも走っていたかった。
他者が求めて、それに応じることができればそれで私は私でいられたのだから。

けれど、それでは立ちゆかなくなるのが人間というものだ。
どう足掻いたところで膨らみ続ける期待(他者からの期待と、自分で勝手に膨らませる期待)に答え続けることはできないし、
それ以上に「私にできること」のほとんどは「誰かにできること」であるので、期待の切っ先は常に私を向き続けることはなく、
何かの拍子に走り続けていたレールを外されてしまうものなのである。

そうしてレールから転げ落ちた人間に待っているものはGAME OVERだ。
肉体的に死ぬわけでも、社会的に死ぬわけでもないが、ただ精神的に終わってしまうのだ。一度。
コンティニューすればいい話・・・・・・かもしれないが、レールの上を走り続けている人間にはそうしたクレジットが残されていることは分からないものである。そして、もしそのことにうっすらときがついていたとしても、シューティングゲームのように持っていた武器が全て失われてしまい、先に進むことが不可能になる・・・・・・なんていく錯覚に囚われる。

世界を救うには常にBダッシュのノーミスで。
なんて風に一度の失敗=ゲームの終了と考えてしまうわけである。


そういうことを考える度に私は思ってしまうのだ。
「ちゃんとした人間」であったならば、私はこんなことを考えずにすむのだろうかと。

言われようのない空虚さに殺されてしまう前に、私はちゃんとした人間になりたいのである。

以下コンテンツ
・尊く綺麗なビー玉を。
・魂の辿り着く先。
・私は私になりたい。



*尊く綺麗なビー玉を。

「真実の愛であれば、一目見ただけでそれと分かるものだ」<< 
オタクとかぼっちとかそういう類いの人間・・・・・・という区切りは正しくなくて、どちらかというとアニメや漫画や映画とかそういった
「物語」に「ナニカ」を求めてしまう類いの人間は、物事を尊く、綺麗なものとして考えてしまうものである。それも、自分が持っていないものに限って。そしてそれは、処女信仰とかそういった話ではなくて、どちらかというと比企谷が放った「本物」というキーワードに由来するものだ。

「仲間ってのは隠し事なんか無しだろ?そうだろ?だからお前らは仲間じゃない!」
「だから僕はパズルに願ったんだ。どんな時でも裏切らない親友が欲しいって」

感覚的にはそういうことなのだ。
友達とか好きな人とかそういったことのハードルがめちゃくちゃ高くて、「絶対少女漫画ですよ!ご都合主義すぎます!!」といった秋ちゃんのように、運命的な出来事を待ち受け続けているのである。

だから我々は引きこもるのである。
いつかその扉を開いてハルヒや岬ちゃんが私の手を取ってくる日を待ちながら・・・・・・

しかし、たとえそれが自身の目の前にあったとしても手を伸ばしたりはしないのだろうと思う。
手の届く距離のあるからこそ、触れてはいけない気がしてた・・・・・・なんていいながら。
触れないことによって、自身が能動的に関わらないことで、幻想が現実化することを防いでいるのだ。
現実はいつだって残酷だから。

「あなたが暗闇に迷い、本当の星空が見えなくなったとき、思い出してください。」
「あの頃みたいな、毎日楽しくて一日の終わりが惜しいぐらいの気持ちって、きっともうないんだよね」
「――だから、けーいちろーさんちの子でいさせてください。――――ずっと。」

物語には真実がある。
だから、私はこうした物語を見続けるのだ。
美しいものを見続けていられるのならば、それはそれで幸せなことだから。

でもお前はわしとは違うんだ。
なぜなら、お前さんは夢を実現しようと思っているからね。
わしはただメッカのことを夢見ていたいだけなのだ。

*魂の辿り着く先。
社会に出てから行く年か経つと、
否が応にも自身の行く先を考えてしまうものである。
というのも、入社当初では理想と現実のギャップにおののき、自身がこなすべき業務に追いかけられるばかりであるが、それが数年も経ってくると客観的に自分の姿を見つめ直すことができるようになるのである。

その理由は『業務になれて余裕ができたから』なんていう理由であったり、
『変わらない業務に追われる自分に気がついた』なんていう理由だったりする。

プラスな理由にしろマイナスな理由にしても、
年を重ねることによって自身の在り方を今一度見つめることができるようになる。

そして、それはこういったブログに関しても同じことなのだと思う。
私のブログが開設されたのは「2014年8月23日」であるらしい。
社会人であればそろそろ転職を考え始める『3年目』というやつだ。

だからこそ、私はこの機会に一度3年目を終わらせる。
このブログを引き延ばして来ていたのは一重に「惰性」だけだ。
何かに至る意思を忘れ、外的な要因に振り回されていた私を今一度終わらせる。
そうしてそこから新しい私を、新しいブログを構築し直すのである。

いつだって人は社会に殺されるんだ。
かつての私もそうだった・・・・・・
だから--今度は私が私を殺してあげるの。

 この場所では、日々の日常を過ごしていて琴線に触れたキーワードを皮切りに文章を構成していきたいと考えています。ですから、誰かに向けた、というよりも自分に向けた文章が多くなると思います。期待としては、共に共感されるような文章ではなく、その時々のあなたに合う文章が残せたら、幸いです。
――自己紹介

 過去の私にとってこの場所は自分自身の内に芽生えた言葉を書き記す場所であった。
 しかし、今の私は目的もただ文章を書いているようなものなのだ。
 それはどういうことかと言うと、文章に魂が入っていないのだ。

 『この文章のどこにもお前はいないのだ』

 事実を書き記しているようなつまらない言葉の塊。
 そこには何のリズムもなく、意思もなく、ただただ言葉の死骸が積み重なっている。
 そんな行為にどんな意味があるのだろうか。
 そんな行為にどんな価値があるのだろうか。
 私はそんなことに疑問を持つこともなくただ思い出したように文章を書いていた。
 
 だから、最近の私の文章は読み返すに値しないのだ。
 一言で言うと「つまらない」のだ。

 他人なんて忘れてしまえばいいのだ。
 自分の書きたいことだけを延々と繰り返せばいい。
 お前にはまだ「他人」なんて早すぎるのだから。
 
 自分が思ったことを思ったとおりに書き連ねる。
 そうすることでしか、自分の魂の行く先を握ることはできないのだから。

*私は私になりたい。

「キミはこれからここで勉強をして友達を作って、泣いて笑って、大人へと成長していくの」
 「悔いの無い青春を」
 ――Myself;Yourself 柚希


 私は私になりたい・・・・・・けれど、私になるためには何をしたらいいのだろうか。
 
 紗名ちゃんがまずは「ちゃんとした人間」になろうとしたように、
 ミサトさんが「しっかり生きて!それから死になさい!」といったように、
 僕らは何かしら「しっかり」とか「ちゃんと」しないといけないようなのである。

 で、「しっかり」とか「ちゃんと」とかするためにどうすれば良いの勝手言うと、
 とりあえず精一杯走るしかないんじゃないかなぁ、というところです。
 

 あのさ・・・・・・結局今のオレには
 まだ「答え」をみつけることはできないけど
 せいいっぱい走ることはできるから


 そういう何かしらのやりたいこととか、生きる意味とかそういうものは、
 運命的な出会いを通じて見つけることもあるかもしれないけれど、
 多くの人はせいいっぱい走ってみたら見つかった、みたなパターンが多いのではないかと思う。
 
 「無」から発生した。なんてのは滅多にないだろう。普通。
 
 欲を言うとその隣で一緒に走ってくれる他人がいればなおのことよいのだろう。
 一人ではできないことでも仲間とならできることもあるそうなので。
 
 ただ、ぼっちにはそういった他人は存在していないので、
 ベンチマークとなる他人を勝手に見つけて、それを目標にしてせいいっぱい走るのがいいのだと思う。
 きっと、そうすれば走り続けることができると思うから。

*Extra.原点に立ち返る
 人間にとって大切なものに「原点」とか「初心」とかそういった言葉がある。
 ただ、そういった観念的なものは言語化されたものだけでは弱かったりするのである。
  
 だから、音楽だったり、物語だったり、人によってカタチはそれぞれだが、そういった想いが込められている作品に触れることで今一度原点に立ち返ることができるのではないかなぁ、と思う。
 
 さて、結論。

 走り続けることでしか私は私になることはできない。
 故に、私達は走るのである。それは他人が引いたレールであっても自分が引いたレールであってもかまわない。
 (もしも自分が進みたい先があるのならば、後者の方が良いだろう) 
 そして、そのレールから外れた時や行く先が不安担ったときは、原点に立ち返りもう一度スタートを決める。
 そういう当たり前の結論に落ち着くのである。