huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

音と光で私を忘れて

強い光と音だけが、私を孤独から忘れさせてくれた。
私にとってパチンコとは、つまり、そういうものなのだ。
パチンコから離れてみて、ようやくそのことに気がついた。
私はただ、孤独から逃れるために、パチンコに行っていたのだ。

どうしようもないぼくに、いつか天使が降りてきてくれますように。
救いはイツだって、天から差し伸べられる。
だから僕らは地下にいる。
できるだけ身体をおって小さくし、空から伸びる一本の糸を待ち焦がれる。

コミュ障というのはそういうモノなのだ。
天から垂らされる糸を待つ存在。
それがコミュ障なのだ。
それがさらにこじらせると糸が垂れてきただけでは、、なにもできず、
私を見つけ、私を引っ張り出してくれるような人間を永遠に待ち続けるのだ。
そう考えると、あの子はすごいな。
自分から行動することができたのだから。

孤独に向き合うことが私にできるだろうか。
パチンコをやめるとは、つまりそういうことだ。
孤独に向きあう。

今までもそうだ。
孤独から逃れるために、、時間をつぶせるゲームに身を費やした。
そのほとんどが代償行為だったのだ。
孤独を埋め合わせるための代償行為。
何かをしているという実感。

何かをしていないと、孤独に塗りつぶされてしまいそうだったから。

そう考えると、私の行動のほとんどが孤独の埋め合わせのような気がしてならない。
アニメも、映画も、パチンコも、自慰行為でさえも。孤独をごまかす手法でしかない。
孤独とは恐ろしいモノだ。それそのものから逃げることはできない・

かといって、
いや、それを言うのは嘘だろう・。
孤独以外を知らない私が、それ以外を論じるなどと。
そんなことは許される行為ではない。

その、つまり、なんだ。
私は孤独である・
友と呼べる人間はおらず、
休日に行う行為すら見つけられていない。

友達とは何であろうか。
それが、私には分からなくなってしまったのだ。
友達って何だろう。早く、友達がほしいなぁ・

もし、私に友達ができたのならば、このセカイも変わって見えるのだろうか。
寂しさを埋め合わせる他人がいたならば。。
それは幸せなことなのだろうか。
私にはわからない。
わからない。