huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

あなたの海で溺れたい。


 オタクに一番必要な能力は何かと考えると。感受性というワードが頭に思い浮かぶ。どんな作品にも人間の感情が出てくるので、それらに共感できなければどんな物語もつまらないものになってしまうのではないだろうか。というか、つまらない。

 多感な時期に多くの人間から迫害されてきたような人間は感受性が破壊されているので、オタクコンテンツを心から楽しむことはできない。彼女達が作品の向こう側で見つけてしまうきらきらわくわくの種を見つけることはできず、ただただ彼ら彼女らの不幸に共感することしかできない。そして彼ら彼女らが人間関係ではっぴーになる様子を見て、自分が少し救われたような気持ちになるのである。

 そういう風に考えると、多感な時期に十分に感性を働かせて人生を楽しんでいた人間の方がオタクコンテンツに慣れ親しむことができそうなものである。が、人生を楽しんでいる人にとっては現実の人間関係がはっぴーなので、オタクコンテンツの向こう側にあるはっぴーは、別段必要ではないのである。最近では、その中間にいる人間がオタクコンテンツを楽しんでいるような気がしており、迫害されたオタク達は家の中で引きこもり、オタクになれずに死んでいく。

 そして、そういう感受性の死んだオタクは彼ら彼女らの感情に触れることはできないので、その感情を生み出すための仕組みの方に手を伸ばしてみたり、仕組みこそが主体となるミステリーな領域に手を伸ばしたりする。まぁ、感受性が低くとも楽しむことのできる領域に手を伸ばす訳です。そうすると感受性は育たなくなっていき、オタクとして死んでいく。

 オタクというかぼっちの話だな、これは。

 

 そういう環境のせいにするのはなんだが卑怯者のような気がするが、ぼっちはその防衛機能として感受性を鈍化させていき、そしてその結果として何も楽しめなくなる。

 

 それをどうにかしたいと常々考えている。

 感受性が低くなると、物語の解像度は低くなり何も楽しめなくなる。何も、というのは極端だがシステム的な楽しみ方しかできなくなってしまう。だからこそ、できるだけ感受性を高めていきたいのである。そうすればきっと、もっと楽しめるような気がするから。

 

 まず第一に関係してくるのは「記憶力と集中力」であると考える。まず、「記憶力」の問題。欲は言わないが長編小説が読める程度には記憶力が欲しい。私は、数頁前の出来事を記憶していないことが多々あり、「なぜこうなったのか」が分からないまま読み進めてしまうことがよくある。言葉の上を滑っているのであるのだとも思いたいが、あんまりにも覚えていられないのでこれはそもそもの記憶力の問題だと思い始めている。覚えていられないから、感情が連続せずに、事実を事実としてしか認識することができていない。これが真実なのかは分かりませんが、一理はあると思っている。

 もう一つの「集中力」の問題。これはあるあるな話で、言葉の上を目が滑っているだけの状態だったり、話を聞いているようでいて何も聞いていないという状態が頻繁に発生する。これももうなんかトレーニングとかでなんとかなったらいいんだけどな。どうしたらいいかわからん。

 


 とか、書いてみたりしたものだけれども、そんなことで感受性とかが養われるものだろうか。養われるのかもしれないけれどそれ以上に大切なことは正しさを求めないことじゃないだろうかと思う。特にぼっちにとっては。大衆の正しさから外れてしまった感覚の強いぼっちは何かにつけて「正しさ」という概念を持ちだしてくる。というのも、赤信号みんなで渡れば怖くない、といった「みんな」の概念を持っていないので、何かについて考える度に、「自分は正しい」と補強するための理由とかを求めてしまったりする。それが続くと「正しさ」のために行動が雁字搦めになったりして辛みが増す。だから、「自分の感情」を追求してそれを大切にするしかないのかと。

 

 それ以上に、「あなたと同じ風景がみたい」というのが真実なので、「あなた」という正しさについて行けない「わたし」が無能でしかない、という認識は変わらない。結局のところ、それを受け入れてやっていくしかない。なんて無情。