huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

2019年7月15日 意識の無意識化

テーマ

①意識の無意識化とは?

②狂わなければ本物ではない。

③一発で足りなければ十の弾丸を用意すればいい。

 


 この世で成功するために必要なことは、意識的に行っている動作を無意識のレベルに落とし込むことである。一連の動作に意識が介入している限り、境界の向こう側の世界の内容を持ち帰ることはできないし、意識に足を取られて現実に埋もれることになる。考えるな、感じろ。感じるために、考える必要がないくらいに落とし込め、という話だ。そうすることでしか本物の領域には辿り着けない・・・・・・と私は思っている。少なくとも、能力・・・・・・いや、才能という言葉を使うべきか。才能のない人間に必要なのは狂ったような努力だけだ。天才が一呼吸の内に済ませてしまう内容を、一呼吸の内に済ませられるように気の遠くなるほどの反復練習を通じて自身の身体にしみこませる。頭じゃない。身体に、だ。そうすることによって、ようやく人並みの能力をてにいれられて、その先にある光に触れることができるようになる。凡才に必要なのは狂いだ。

 


 凡才に必要なのは狂いである。言い換えれば、狂わなければ本物には到達できない。天才並みの努力ではもちろん、人並みの努力でも到底足りず、狂人じみた努力だけが凡才には必要である。では、狂人になるために必要なのはなにか?劣等種である凡人にはそういう定義すらも必要なのだ。何かしらの正しい選択肢にすがることでしか生きられないような凡人には。狂うために必要なモノはただ一つである。それは、「信仰」であり、日本人になじみ深い言葉に言い換えるならば「憧れ」である。その上で重要なのは「心の底から祈ることができる対象であること」だ。空虚な心で祈っているばかりでは何も得られるモノはない。あるいは、「悪意」でもいい。心の底からぶつけられる感情があるのであれば、どんな感情だって構わない。ただ、できるだけすぐに触れられるものであり、かつ手の届かない場所にいることが望ましい。そう、一番良いのは「死者」か「2次元」だ。彼らは常に理想たり得る。裏切るのはいつだって現実だが、空想になって、物理的に手の届かないところにいってしまえば、その祈り/呪いは永遠になる。その感情を胸に閉じ込めて現実と戦えば、どこかに向かうだけの推進力にはなってくれる。狂うだけの原動力にはなってくれる。もちろん、いつかはその信仰を捨てる日が来るかもしれないが、その頃にはきっと何かがつかめているはずだ。

 では、自身が凡人であることを理解し、狂うのに足りるべき対象を見つけた人間は何をすればよいのだろうか、という話になる。もちろん、狂うといってもこんにゃくでお尻を叩く必要は無い。ただ、その方向に向けて反復練習を繰り返すだけだ。

 


1発で足りないのならば、10の弾丸を撃ち込んでやればいい。

 


 打ち込む数が少ないから撃墜されるだけの話である、と考える。EASYモードの敵はすぐにやられてくれるが、HARDモードの敵はすぐにはやられてくれはしない。人によって難易度が異なるのだから、十分な数を打ち込まなければ成果は得られない。ただ、それだけの話だと思うしかない。そうしなければどこにも進めやしないのだから。

 

 一方で、試行回数だけが全てではないのは事実である。膨大な試行回数で体力をつけることも重要であるが、それ以上に大切なのは結果を分析することである。なぜ、そういう結果になったのかを考えなければなにも生まれない。何も得られない。分析のないまま進めようとすると本当に膨大な試行回数が必要になる。素人が分析できる内容なんてものはたかがしれているが、それでもやらないよりはやった方がいいのは確かだ。そうしなければ、死よりも辛い地獄に陥る。どこにも到達できない。終わりがない終わりに・・・・・・

 

 この世の地獄は劣化することにある。

 これが最後の言葉である。負のスパイラルとは、劣化→成長(回復)→放置→劣化(回復)・・・・・・といったように、劣化から元のレベル(あるいはそれ以下)に戻ることを成長と捉えて永遠に無能の領域に留まることを意味している。人体は使わなければ劣化するので、何もしなければ少しずつ身体は腐っていき、気がついた時にはどこにも到達できなくなっている。1ページ前の自分より強くなることもあれば、10数ページ前の自分よりも劣化していることだってある。それが人間だ。だから、年齢なんて関係ない。素敵な金利じゃないんだ。歳を重ねることで得られるものなんて何もない。どれだけの経験値を得られたのか、それだけが人生の全てだ。

 

 劣化する人生に彩りを与えるために。

 信仰の対象になることだけが世界を救う唯一の術なんだ。

 

メモ

・自分のことは自分が救わないとダメですよ?

・無名の芸術家でも、その芸術的向上心において、芸術的良心において、決して天才の士に劣っているわけはないのだ。彼らの欠点はただひとつである。それは彼らの天分が、どんなに磨きを掛けても輝かない鉛か銅であることだ。(無名作家の日記)

のび太くんたちには地球が故郷なんだよ

・それは誰にも分からない。ただ、彼女にとっての最後の試練、革命という名の決闘が、今始まるんだ。(ウテナ)

・夢を見るってそういうことだもん。デュアルだってそうでしょう?(ガラスの花と壊れた世界)

向こう側の世界へ

 向こう側の世界に向かうのに資格は必要ない。ただ、境界をなくしてしまえばいいんだ。自我と彼岸を超えて、意識をなくして、無意識の向こう側へ飛び込んでいかなくてはいけない。そうでなければ、この世のすべてが現実の讃美歌になってしまう。現実にはないものを持ってくるからこそ文学は尊いのであって、現実を賛美するのであれば幻想も空想もただの自慰だ。現実の向こう側へ。現実の向こう側へ。現実の向こう側へ。「心を込めて祈りなさい。うわの空では何も起こらないよ」祈りの向こう側には何があるんでしょうか。空、海、草原、山。彼方側に肉の身体は持っていけないので、きっと静かなところです。そうです。私たちはこれから天上に向かうのです。何も怖いことなんてありません。それこそが至上の幸福なのですから。
 現実、現実、現実。きっとそこには夢も希望もありはしません。だからこそ、こんなにも多くの人が空想や幻想を求めて旅立っている。知っていますか?現実の人たちは「定時に帰ります」なんて物語を楽しんでいますが、その裏のアニメで「仙狐さん」がやっているわけです。定時に帰ることを至上の幸福とするドラマの裏で、たとえ残業で、会社で苦しめられたとしても、家で「おかえり」といって迎えてくれる他人がいることを幸福とするアニメがやっているのです。いいですか。社会は悪です。あんなものを幸福なんてとらえちゃあいけません。奇跡も魔法もなくていいから、君がいてくればいい。それだけが真実です。空想に恋をしましょう。そうすることできっと我々は救われる。
 救済、救済、救済。何もしていない人間が救われたいだなんて罪深いことなのでしょうか。何もしていないからこそただひたすらに祈ることしかできないのです。それはいいわけでしょうか。いいじゃあないですか。人事を尽くせない人間だっているんです。休日が終わろうとしています。でも、私たちは何も終わらせられませんでした。きっとそれも幸福。救済。救われてしまえば、私たちは弱者ではいられなくなる。弱者でいさえすればどれだけ愚痴をいっても、悪態をついても許される。弱者とは可哀そうな人間だから。そうすることでしか社会と向き合えない人間だっているのよ。そうですとも。だから、許してにゃん。
 許してにゃん、許してにゃん、許してにゃん。だれも許してくれないにゃん。だれも愛してくれないにゃん。僕らは猫になれなかった。幸せなにゃんこにはなれなかったんです。だから空を飛ぶしかないんです。にゃんにゃん。おしまいにゃん
 文、文、文。こうして思いつくままに言葉を吐き出して、吐き出して、吐き出し続けていくことで、私はどこかへ旅立つことができるのでしょうか。この言葉の羅列に意味はあるのでしょうか。わかりません。わかりません。でも、きっと、そうすることでしかどこかにたどり着くことはできないと思うから。吐き出した後はきっと何かを幸福なものを吸い込むことができると信じているから。言葉を連ね、文章を連ねて、その言葉の羅列に意味はなく、そうした行為にだけ意味がある。意味があると思いたい。少しずつ自分が欠けていくのような感覚。何かが失われていくような感覚。でも、それもきっと幸福とはべつのものなんです。でも、幸せなんです。本当に?夢を見るのは楽しいです。空を見るのは楽しいです。海を見るのは楽しいです。夜を見るのは楽しいです。楽しさは幸福とは別ものだから、そこには彼岸があるものだから。
 向こう側、向こう側、向こう側。僕らはどこに行こうとしているんだろうか。夢の果てには死という名の優しい椅子が置いてある。僕らはそれに向かって階段を上っていき、最後にはその椅子に足をかけて、明日に向かって飛び出すんです。向こう側に行きたいのでしょうか。現実が好きなんでしょうか。空想が好きなのは現実が嫌いだから?幻想が好きなのは現実が嫌いだから?でも、どこかに行けるのならばあの世界がいい。ああいう風に死にながら生きていられるあの世界が。ちゃんと生きられない人間でも延々と生きていられるような気がするから。どこだよそれは。
 まなびちゃんの目にはどんな世界が見えているんでしょうか。あのころから僕はどれだけ成長できたんでしょうか。いまだにきらきらわくわくの種は見つかりません。それでも僕らは大人になってまなびラインを越えていく。

人並みの幸福と人並みの努力

 『俺のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。学校を出れば、田舎の教師でもして、平和な生活に入るのだ。』
人並みの幸福―家庭を持ち、子供を育て、一軒家を持ち、自家用車を持つ―そんなテンプレート化された幸福を求めてしまうのが日本人のサガというものだと思っています。そして、往々にしてそういう『平凡人としての平和な生活』を甘く見ている傾向がある、と思っている。ブラック企業に入って苦しんでいる人も、夢を追っているふりをして生きている人も、『平凡人としての平和な生活』が簡単に手に入る・・・・・・というような夢を見ている。そう、僕らは努力しなくても手に入る『平凡人としての平和な生活』を心から望んでいる。主語が大きくなった。私はそういう生活が誰にでも手に入ればいいと思っているし、そういう生活が手に入ることが幸福だと思っている。

 その一方で、もう一人の私が心の中でつぶやく、「大切なのは、幸福になることではないよ」と。

 幸福、幸福、幸福。幸福とはなんでしょうか。テンプレート化された平凡人としての幸福こそが至極とされていた世の中から少しずつ世界は変わっていて、みんながみんなそれぞれの幸福の在り方を手にし始めているのが本当に妬ましい。どうしてみんなそんな風に自分たちの暮らしをイメージして行動することができるのだろうか。私は別に無駄な努力がしたくないとかそういうことを思っているのでもなく、幸福になるためにならどんなことだってやって見せるという気持ちだけを持っている。嘘です。幸福とはなるべきものではなく、在るものです。なんて言葉はいらないです。帰ってください。
 私の幸福はどこ?青い鳥は近くにいるのでしょうか。この狭くて暗く何もない四畳半の世界に、青い鳥はいるのでしょうか。いるわけないでしょう。青い鳥を捕まえるために何かをしたことすらないというのに、幸福が舞い降りてくるわけがないんだ。涼宮ハルヒも中原岬もこの世界にはいない。いない。彼を連れて飛んでいってしまったから。醜い肉の身体は彼方には連れていけないから。だから、現実は嫌いなんだ。いつも置いていかれる。誰もかれも先に行く。境界があるんだ。あそこには。だから、彼ら彼女らの幸せは私のものにはならない。そうして私は繰り返す、あの素晴らしいをもう一度。

 何かを為すためには何かを減じなければならないらしい。罪を清算したり、過去と向き合ったり、選択肢を削ったりと、無限の可能性ややってしまった過去から目を背けて歩いていくことはできない。ライが忘れてしまった過去を清算したように、白銀武が冥夜に別れを告げてから彩峰のもとにいったように、幸福を手にするためには何かをしなくてはならない。幸福は降ってこない。逆を言うと、私からみて幸福に見える人たちはその幸福のために何かしらをささげてきた人なのでしょう。どこにも到達することのない電車ごっこをしていた私とは違って、どこかたどり着きたい場所に向けて努力をしてきた人たちなのでしょう。穏やかに暮らしたいと思うのが遅すぎたのかもしれません、私たちは。だからこんなところで他の人が捨てなくてもよかったものを捨てなくちゃいけなくなっている。自分が欲しかった夢を捨て、自分が関わりたくなかった労働をし、延々と幸福ってなんだろう、と思いながら、いつか幸せになれる日を夢見て布団を被っている。だからもう、誰も起こさないでくれ。
 
 夢、夢、夢の世界。夢の世界は幸福であふれています。あの世界であれば私は苦しむことなく死ぬことができる。びっくりはするけれど。夢を見る方法は簡単で、うつぶせで眠ればいいだけなんです。それだけで私は夢の世界へ旅立てる。眠りにくい環境というのがいいんでしょうか。苦しい体制で眠ることで、眠りが浅くなり、夢が見られるような気がする。そこでは現実の醜い肉の身体は捨てて私は私ではない私になって、自由に生きている。苦しい体制で寝ているだけあって悪夢をみる確率も高いですが、それでも現実よりはきっとましです。それが夢なき普通の人以下の人間に許された幸福です。普通の人以下の我々に許されるのは現実以外での幸福です。現世は捨てて夢をみましょう。夢のために働きましょう。眠ることのできる身体と生活を手に入れるために働くのです。そうしてできるだけ多くの時間を睡眠に費やし、できるだけ長い時間夢を見るように心がける。醜い肉の身体では異世界にいくことも、過去にいくことも、誰かから愛されることもありませんが、夢の世界であればチャンスがあります。そこにかけましょう。努力は不要ですから。つらくなったらリタイヤすればいいのですから。ええ、神様もきっと許してくれる。それが私たちに許された幸いだから。

 努力、努力、努力。人がどれだけみじめにあがいてみたところで自然の美しさには敵わないもの。だから、何かをしようと考えた時点で自然に負けている。現実がなければ空想も幻想も生まれない。それはつまり、現実こそが至高であるということ。幻想も空想も現実の讃美歌に過ぎないのよ。美しい現実を切り取って空想と幻想が生まれた。はじめに現実在りき、だ。だから本当の幸福は現実にしかない。現実以外から持ってきた幸福は全部偽物なんだ。そんな偽物で満たされる心なんて存在しない。生きている限り。だから、きっと僕らは努力するしかないんだ。自分だけの青い鳥を見つけて、それを捕まえるために努力をしなくてはいけないんだ。そうしなければ、きっといつまでも幸福という幻想に取りつかれて、括ることになってしまう。これでみんなしあわせになれる。どっちが幸福かはわかりませんが。だって、私は死んだことがないもの。

 努力をしろと、人は言う。努力が何かを教えてくれるひとはもういない。みんな先に行ってしまったから。そして自分たちの幸福に閉じこもってしまった。彼ら彼女らも、自分たちの幸福を守ることで精一杯なんだ。ほかの可能性なんてみせてくれるなと、俺と同じかそれ以下の幸福であってくれと。そう願っている。社会はみんな。自分よりも優れた存在を、幸福な存在を認められるほど人は優しくない。だから、僕たちは幸福にならなくちゃいけないんだ。お前が考えるような幸福でなかったとしても、私だけのラストリゾートに向けて。歩かなくては、まだ、歩けるうちに。死んでしまう前に。なんで。

嘘と労働

 自動スクロールのアクションゲームって、時間に押されて進んでいくと大抵飛距離が足りなくて死ぬじゃないですか。走りだそうと思ったらもう目の前には崖が迫っていて、いざ飛ばなくちゃと気を入れたときにはもう距離がたりなくて、先のステージを夢見ながら落ちてしまうじゃないですか。まさにあんな感じなんですね。労働って。
 自分が新人だと思っていた時間はいつの間にか消え去っていて、新しく入ってきた新入社員に看取られながら、落ちるしかない崖の手前でジャンプをするしかなくなっていて、できない理由を外に見つけようにもどうしようもないくらい自分の情けなさだけがただあるので、できるだけ笑われないようにジャンプするんです。そうすると崖の手前で「もっと頑張れ」とリスタートさせられて、延々と飛び越えられない崖に向かってジャンプしていく。そうこうしている間に後ろで見ていた人間が自分の目の前を軽やかに飛んで行ったりする。鳥は鳥でも飛べない鳥はなーんだ。それはひとりという鳥だ。飛べない鳥は羽を毟られて唐揚げになるしかないんですが、誰もひとりなんて食べようとは思わないんです。だから、ただただ自分の肉体が腐っていくのを見ていくことしかできない。あの柵の向こうに跳ぶこともできやしないから。醜く腐り果てていく身体をみるために私は生まれてきたんでしょうか。自分の肉を腐らせて周囲のものをゆがませて、そんなことのために私は生きているのでしょうか。もしそうならば平成よりも先に終わりたい。
 労働、労働、労働。大変なんですね。最近はもうずっと、公式を知らないままに問題を解こうとしているような気分で胸がいっぱいになります。バカは死ななきゃ治らないといいますが、たぶんそれはバカが言った言葉ですよ。私はあなたとは違う人間です。もうあなたのようには慣れないので終わりにしてほしい、と。それがいつの間にか逆転してバカは死ななきゃ治らないという嘲笑に代わり、初手自殺が最適解になるわけです。これでみんな幸せになれる。
 嘘、嘘、嘘。嘘に嫌われていたいですか。そうですか。優しい嘘でも何でもいいですから、私の前では全部本当のことみたいにしておいてほしいです。もういいじゃないですか。嘘とか本当とかそういうの。どっちにしてもいいことなんてないんですから。嘘でも本当でもなんでもいいので、誰か私を助けてよ。
 祈り。これから先どれだけの無力感を積み重ねていくのだろう。無力感が積み重なるほど、齢を重ねるほど、少しずつ自由と自在が失われていき、いつしか自分の身体も思うように動かせなくなる。時間をかければできることなら布団を燃やしたりしてもいいんですが、時間をかけてもできないことなら何を捨てればいいんですか。時間がすべてを過去にしてくれる。それが唯一の救い。時間は祈りだ。ありとあらゆる現象を誰も手を出せない、物理的に手のくわえられない過去に追いやってくれる。時間は現象を風化させ、私のミスも過ちも全部誰も手を出せない場所にもっていってくれる。終わり、終わり、終わり。もうその先には何もない。人間なんて生きていたって意味がないじゃないですか。どうせ自然の美しさには負けるんだ。だったら全部投げ出して消えてしまえ。そうだ、きっとそれがいい。空想も幻想も現実の讃美歌に過ぎないならば。全部終わればいい。

学生ぼっちと社会人ぼっち

 ぼっちの皆様いかがお過ごしでしょうか?

 今年入社された方はきっといつの間にか形成されていたLINEグループに驚いているころかと思います。実は内定式の後に貴方のみんなは飲み会をし、入社式が始まるよりも前に何度か遊んだりしています。知らなかったでしょう。何かを始めることに遅すぎることはありませんが、出遅れれば出遅れるほど追いつくのは難しくなるものなので、もう人間関係にはあきらめたほうがよいかと思います。どうせ部署やプロジェクトが変われば関係性を持つことはありませんし、彼ら彼女らが仕事をくれるわけではありません。むしろ新入社員への教育が評価基準に組み込まれている上司に目を向けるべきで、そこにしか救いはありません。頑張りましょう。一緒に。

 

 ただ、学生ぼっちを過ごしたからといって社会人ぼっちはまた別なものです。

そこで、二つの作品をしょうかいしながら「学生ぼっち」と「社会人ぼっち」の違いを紹介していきます。

 

学生ぼっち / ぼっち・ざ・ろっく!

ぼっち・ざ・ろっく! (1) (まんがタイムKRコミックス)

ぼっち・ざ・ろっく! (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

 

ポイント①他力本願

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ぼっちは基本的に誘いを断わられるのが怖いので、自分からノックをすることができません。このすば!のゆんゆんが「昼ご飯を食べた後は夕方まで外を一人でウロウロし、偶然知り合いに出会い、遊ぼう? と誘ってもらえるのをジッと待つ子」であったように、ぼっちは常に待っているのです。声をかけられるのを。

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話の振り方なんて、もちろんわかりません。

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その分、声をかけられたときのための『予習』を怠らない。

自分から行動できない分普通の人よりも格段にチャンスが少ないので、その少ないチャンスをものにするために徹底的に予習をします。大抵の場合はそれが発揮されることなく終了しますが、もしチャンスが到来しても空回りして終了します。悲しいです。

 

だがしかし悲しいかな。

コミュニケーションが他力本願のため、声を発する機会がほとんどなく、「声がでない」ことが多々あります。

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絶望先生でも同じような話があったかと思います。

ぼっちは自分から言葉を発することはないので、休日などを挟むと声を出さない時間が長すぎたせいか、声の出し方を忘れたり他人との話すときの声量を忘れてしまい、声が出なくなるのです。

そのため、無駄に音読などをして普通の人が一日に使う声をカバーしてなんとか声を保つようにしたりするものです。

 

ポイント②成功体験が圧倒的に欠如している。

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ぼっちの過去は基本的に「黒歴史」です。

他人から話しかけてもらうために、人と違うことをしてアピールをするとかぼっちが思っている面白い人の真似をする、といったことをして気づき上げてきた「イタイやつ」という印象は捨て去るべき黒歴史でしかありません。

ぼっちに残された唯一のリセットチャンスは進学のタイミングのみ。

自分に対するマイナスな評価をリセットするためにも誰も過去の自分を知らない場所に進学しようとします。ここで大事なのは「誰も」というところです。誰か一人でも過去の自分を知っている人間がいる場合には、「マイナスな自分」がどうしても拭いきれなくなってしまうものです。

そこから学習して受け身な姿勢が強化されていくわけです。

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一方で、成功体験に対してぼっちはチョロいです。

ぼっちは基本的に行動を起こさないため、成功体験が他者に比べて圧倒的に少ないです。なので、ちょっと頑張れると頑張れるような気がしてすぐに調子に乗ります。自分からみたら大きな一歩だとしても他人からしたら小さすぎる一歩だったりするんですが、比較する対象がいないので気が付かないんですよ。いいじゃないですか。それくらい。

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あと、成功体験以前の問題として、普通の人間が他人とのコミュニケーションで獲得してきた普通の選択肢を知らないうえに、コミュ症の自分にできることを考えると極端な選択肢しか残らないことが挙げられます。

他の人間が配られたカードを交換しながら物語を進めていく中、一人手持ちのカードで戦うしかないんです。頼れるものは家族だけ!・・・となるとこれでみんな幸せになれる、という選択肢しかとれないですよ。

ポイント③馴染めない

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「この街に慣れていない」という感覚はとってもぼっちぽいです。

オタクが黒い服を着た人間の多い秋葉原を歩くと安心したのと似たようなもので、近くに知っている自分を害さない「慣れた」ものがあるというのはとても大事なことです。

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トイレは不良染みた人間たちのたまり場だったりするので、そこを安息の地とすることは少ないし、他人の視線から逃れるのであれば早々に食事を終えて歩きまわることや食事を行わないで歩き回るなどの手段が有効です。もし、その行為の間に人がいないベンチなどが見つかれば最高です。そこが「自分を害すもののいない慣れた場所」になるでしょう。

 

↑ここまでは学生ぼっちの話

↓ここから社会人ぼっちの話

社会人ぼっち

なんで生きてるかわからない人 和泉澄25歳

学生ぼっちは行動に表れやすいですが、社会人ぼっちは思考に表れやすい。

きららはきらきらしているのですが、こっちはきらきらしていない上に等身大の話が書かれているので余計に辛い。でも、最後の2話は救われた。だから好きなの。

ポイント①なんで生きているのかわからない

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生きるために働いているので起きなくてはいけないのですが、なんのために生きているのかわからないんです。

起きないといけない、働かないといけない、でもなんで?

そこに理由を求め始めると底なし沼に沈んでいくのでできるだけ考えないようにして生きている。普通の人間であれば自身の思考で道を切り開いていけるのかもしれないけれど、普通になれなかった自分がたどり着く先は地獄しかなくて、どれだけ考えてみたりしても悪い地獄かましな地獄かの二択でしかないんです。

25歳という年齢になると夢に向かってきららジャンプすることもできないので、線路に飛び出した、くらいしかやれることはないです。死は救済。

 

ポイント②時間だけを重ねていく。

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自分が重ねたのは齢と皺だけ。最強伝説 黒沢でも同じような話がありましたよね。

ぼっちがぼっちになる理由の一つに他人から逃げることが挙げられるのですが、社会人に入ってからは経験値と行動に応じて人生のスピードが急速に変化します。というよりは先に進むための衝立がなくなるんです。これまで足の速い人を学校にとどめてくれていた衝立が。学生の時分から時間の壁に押されて学校から排出されただけのぼっちがそうした人々についていけるわけもなく、同期から同級生から置いていかれていく。

そうした感覚がより他人を遠ざけていく。ぼっちになる。

 

終わりに

「無能・社畜・ぼっち」の大三元を揃えてしまったらおしまいです。

実際問題はセーフだったとしても個人の心の部分がアウトです。耐えられません。

頑張って幸せになりましょう。