huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

あなたの代わりに社会(わたし)が夢をみせてあげる。

夢が叶えられなかったのなら、
また別の夢を叶えればいいのよ。
社会が貴方に夢を提供します。

人類の夢は社会が見せてあげる。

労働の果てには何があるか、
労働の果てにあるのは「幸福な家庭」だ。
結婚をし、子を育み、一軒家を持ち、車を買って、偶の休みに遊びに行くことができる……そんな幸福な世界が労働の果てにはあるのです。だから、そんな辛そうな顔をして働かないで。幸福には試練がつきものだから。みんな苦しんでいるから。みんな嫌な思いをしているから。あなたの悩みは他の人に比べたら幸せだから。だから、もっと笑顔で働いて。タイムカードを切ってから働いて。労働のための準備の時間は労働時間じゃないのよ。通勤時間だって労働時間じゃないでしょ?だから、あなたが会社のために有益な仕事をしたら、その時間だけを労働時間にすればいいの。朝礼であなたに目標を叫ばせるのはなぜだと思う?終業後に目標に対する活動を叫ばせるのはなぜだと思う?月に一度部署で一番の給料泥棒を発表するのはなぜだと思う?君が幸せな家庭を手にいれるためなんだよ。本当の幸いを得るためなんだ。つらいことを乗り越えるからこそ、成長できるんだ。幸せになれるんだ。



―――俺もやったんだからさ。お前もがんばれよ。
あったかもしれない人生なんて考えてないでさ。
男なら……数字で語れよ!



なにやってんだろう。

男なら数字で語れ、って最高な言葉ですよね。
年収とか、労働時間とか、身長とか、睡眠時間とか、ノルマとか、経験人数とか、男はみんな数字で語っていきていく。

はい。なんだか疲れましたね。
明日も労働がやってきます。私たちが幸福な家庭を手に入れるために必要な労働がやってきます。
自分の夢を叶えることができなかった人は、こうして社会のために夢を見るしかないんです。
社会のために。社会のために。でも、それであなたは苦痛が逃れられることができる。
孤独から、社会の目から、何もかもから。

だから、一緒に夢をみましょう?
私もあなたも、みんなで夢をみれば、それが唯一の現実になるから。


*なにやってんだろう。

あなたの海で溺れたい。


 オタクに一番必要な能力は何かと考えると。感受性というワードが頭に思い浮かぶ。どんな作品にも人間の感情が出てくるので、それらに共感できなければどんな物語もつまらないものになってしまうのではないだろうか。というか、つまらない。

 多感な時期に多くの人間から迫害されてきたような人間は感受性が破壊されているので、オタクコンテンツを心から楽しむことはできない。彼女達が作品の向こう側で見つけてしまうきらきらわくわくの種を見つけることはできず、ただただ彼ら彼女らの不幸に共感することしかできない。そして彼ら彼女らが人間関係ではっぴーになる様子を見て、自分が少し救われたような気持ちになるのである。

 そういう風に考えると、多感な時期に十分に感性を働かせて人生を楽しんでいた人間の方がオタクコンテンツに慣れ親しむことができそうなものである。が、人生を楽しんでいる人にとっては現実の人間関係がはっぴーなので、オタクコンテンツの向こう側にあるはっぴーは、別段必要ではないのである。最近では、その中間にいる人間がオタクコンテンツを楽しんでいるような気がしており、迫害されたオタク達は家の中で引きこもり、オタクになれずに死んでいく。

 そして、そういう感受性の死んだオタクは彼ら彼女らの感情に触れることはできないので、その感情を生み出すための仕組みの方に手を伸ばしてみたり、仕組みこそが主体となるミステリーな領域に手を伸ばしたりする。まぁ、感受性が低くとも楽しむことのできる領域に手を伸ばす訳です。そうすると感受性は育たなくなっていき、オタクとして死んでいく。

 オタクというかぼっちの話だな、これは。

 

 そういう環境のせいにするのはなんだが卑怯者のような気がするが、ぼっちはその防衛機能として感受性を鈍化させていき、そしてその結果として何も楽しめなくなる。

 

 それをどうにかしたいと常々考えている。

 感受性が低くなると、物語の解像度は低くなり何も楽しめなくなる。何も、というのは極端だがシステム的な楽しみ方しかできなくなってしまう。だからこそ、できるだけ感受性を高めていきたいのである。そうすればきっと、もっと楽しめるような気がするから。

 

 まず第一に関係してくるのは「記憶力と集中力」であると考える。まず、「記憶力」の問題。欲は言わないが長編小説が読める程度には記憶力が欲しい。私は、数頁前の出来事を記憶していないことが多々あり、「なぜこうなったのか」が分からないまま読み進めてしまうことがよくある。言葉の上を滑っているのであるのだとも思いたいが、あんまりにも覚えていられないのでこれはそもそもの記憶力の問題だと思い始めている。覚えていられないから、感情が連続せずに、事実を事実としてしか認識することができていない。これが真実なのかは分かりませんが、一理はあると思っている。

 もう一つの「集中力」の問題。これはあるあるな話で、言葉の上を目が滑っているだけの状態だったり、話を聞いているようでいて何も聞いていないという状態が頻繁に発生する。これももうなんかトレーニングとかでなんとかなったらいいんだけどな。どうしたらいいかわからん。

 


 とか、書いてみたりしたものだけれども、そんなことで感受性とかが養われるものだろうか。養われるのかもしれないけれどそれ以上に大切なことは正しさを求めないことじゃないだろうかと思う。特にぼっちにとっては。大衆の正しさから外れてしまった感覚の強いぼっちは何かにつけて「正しさ」という概念を持ちだしてくる。というのも、赤信号みんなで渡れば怖くない、といった「みんな」の概念を持っていないので、何かについて考える度に、「自分は正しい」と補強するための理由とかを求めてしまったりする。それが続くと「正しさ」のために行動が雁字搦めになったりして辛みが増す。だから、「自分の感情」を追求してそれを大切にするしかないのかと。

 

 それ以上に、「あなたと同じ風景がみたい」というのが真実なので、「あなた」という正しさについて行けない「わたし」が無能でしかない、という認識は変わらない。結局のところ、それを受け入れてやっていくしかない。なんて無情。

特筆すべきこともなき夜に

 

今日は本当に書くことがない。

なんて書き出しをしてしまうと、文章が書けなくなるものであるが、頑張って書いていきたい。

 


昨日買った澁澤先生の作品、「快楽主義の哲学」なる本を読んでいるが、これがまた面白い作品。

 


「幸福とは苦痛の欠如だ」

「幸福とは、静かな、あいまいな、薄ぼんやりした状態であって、波風のたたない、よどんだ沼のようなものです」

「「できそうもないことには最初から手を出さない。実現可能な範囲だけを、是が非でも守ってゆく」というけちくさい現実主義が、現代青年のあいだに、幅をきかせているような気がします。」

 


<カット>

規範に従うことは苦痛の欠如に繋がるかもしれないが、そこに快楽は存在せず、私が存在している意味も無くなってしまう。

自分の欲するところに快楽が存在しており、それをコントロールしなくてはならないのである。

<カット>

 


幸福でいたいと願うばかりに、自分の快楽を求めることができなくなっていたなあ、と思い返す。代償行為的な幸福ではなくて、ただただ気持ちが良いと思えるような行為が自分の内側から消えつつあるのではないか。パチンコなどがまさにその極みで寂しさを上書きするためだけに続けているようなものなので、多分、本当は、必要ないことなのだ。

 


意志の力、という言葉があるが、

多分それはこれにも近いことで、

快楽を解放させることができれば、それがあなたの意志になる。大事なのは欲すること。

 


それができれば自分が気持ちよくなるために意志の力は増大していくのだから。

 

オナ禁をすると性欲が増し、ナンパの成功率が上がると言うが、多分そういうことだ(どういうことだ)。欲望=快楽を求める力=意志の力=行動という形で結びついて結果に到達する。

 


欲望を自覚し、それを発露することが大切。

そうすることでしか大人になることはできない。

 


欲望をコントロールする力。

 


これが、澁澤先生の仰ることなのかは分からないが、まずはこのように私は解釈した。

残りのページも読み進めながら考えていきたい。

 

 

 

後、最後。

やはり、書いた文章は見返されるべきだが、

読み返すだけの気力が通常時には発生しないと思う。

というよりもソレをしていたら疲れ果ててしまう。

 


ので、やはりまずは一週間で管理をしようと思う。

文章を一週間単位でPCに格納していき、それを加工してブログに載せてみたりする。

そうすることで、発露する場所を作成する上に、自分の感情を再確認することができる。

それを積み重ねていくことで何かが得られるかもしれない。

端的に労働に向いていない。

向き不向きなんて存在しない。
あるのはその方向に向こうとする意志があるかどうかだ。

だから、僕らは働いています。必死で社会の方を向いて。


 労働に向いていないと感じるときはいくつかある。私の中で一番大きなソレは「コミュニケーションコストが他人よりも膨大にかかる」ことである。
 コミュニケーションコストとは、何かを実行する際に他人に何かを説明・依頼する必要がある場合に発生する。コミュニケーション能力が低い人間ほどコストに対する成果や成功率が圧倒的に低くなる。私の場合だと、10のコストで1の成果しか上げられないのに、上手い人の場合だと、5のコストで8の成果を手にすることができたりする。
 そういう「低いコミュニケーションコストで高い成果を得られる人間」を社会ではコミュ力の高い人と呼んでいる。そして、そういう人たちは社会に向いている・・・・・・のだと思う。

 昔であれば「労働時間を掛ける=コミュニケーションコストを積みます」ことでその能力の低さをカバーすることができたものである。コミュ力の高い人ならば電話一本で済ませてしまうようなことを、口頭で伝えきれないから文章を作り、資料を作り、そうやって100のコストで10の成果を獲得することができた。
 だがしかし、昨今は「労働時間の是正」なるものが横行しそうしたコミュ力の低い人間が圧倒的な弱者へと変貌しつつある。そういう人間ができる手段としてはこうしてお家で足りないコミュニケーションコストを払うことだけだ。
 
 コミュニケーション能力の低さがごまかしきれなくなってくると、さらに最悪なことが起こる。
 それは、他人に説明しなくなるということだ。
 
 往々にして、こうしたコミュニケーション能力を持たない人間は、「他人とのコミュニケーションにスタミナを消費する」のである。
 普通の人であれば「ただの相談」や「ただの会話」でしかない当たり前の行動が、スペシャルな活動になってしまうのである。私自身がそういう人間なので、極力コミュニケーションが発生する場を減らそうと、エレベーターは同僚と鉢合わせた時に会話をしなくてはいけないから階段を使ったり、お昼ご飯で同僚と出くわさないために遠くの誰も使わないであろうお店にいくなどを実践している。
 そんな風に極力コミュニケーションする機会を排除することで少しでも仕事のために余力を残そうとしているわけである。
 だが、大抵の場合は15:00を過ぎる頃にはコミュニケーションをとる精神力が尽きており、会社という空間に晒されていることが苦痛になってくる。もちろん、会社にいるすべての人間が自分という人間に注目をしているわけもなく、会話を仕掛けてくることもないのだけれど、そういう可能性を秘めている場所にいることがどうしようもない不快感を与える。ドラクエで言えば毒の床に立ち続けているようなもんです。そこに居るだけで心にダメージを負っていく。
 そういった事態に陥ると、こういう人間は他人に頼る・尋ねるということができなくなる。大抵の場合、他人に頼らなくてはならない、尋ねる必要がある場合というのは「自分ではどうにもできない場合」であり、他人に迷惑をかける行為である。そうした時に消費する精神力は膨大なもので、それを実行に移すことはできやしない。そうするとトラブルが後で発生し、炎上していく。爆弾を抱え込み、他人の銃弾を抱え込み、すべてがどうしようもなくなる納品間近で自爆特攻を仕掛けて台無しにするのである。
 あるいは尋ねられないことで可能性を潰しきれず、普通の人の倍近い案を提出する必要が出てしまったりして辛みをまして言ってしまう。正しく仕切れないことは当人だけでなくその周囲の利害関係者にも迷惑を掛けるので、普通に関わりたくないタイプの人種です。
 
 
 そんな風な人間が、いるわけです。
 

 でも、そんな人間でも他人との繋がりは求めていたりするもので、コミュニケーション自体が嫌いなわけではなかったりするので、性根自体は労働に向いていないわけでもない。
 
 
 結局のところ、向いている向いていない以前に「労働が好きではない」ことが問題である。もう少し強くいうと「労働を好きになる理由が一つもない」ことである。
 コミュニケーションコストの掛け幅とは結局精神的なものでしかなく、自信があったり、コミュニケーションを取る精神力があればコストはその分だけ下がって低いコストで正しく伝えることが可能となる。会社での会話は辛くても、身内との会話は簡単にできるみたいなもの。そのときの体調やモチベーション、対峙する相手や目的によっても変わってくる。もちろんプロと呼ばれる人間になってくればそのあたりもコントロールして「やっていく」感じになるのでしょうが、普通人であればそうした揺れが発生する。能力のない人間はその揺れをつかってやっていくしかない。
 

 労働に向かないコミュニケーション弱者は他人との会話にコストを消費する。労働を円滑にかつ楽に進めるためにはコミュニケーションは必要不可欠で、なんとかしてそのコストは引き下げる必要がある。だが、能力は最低値のため環境によって変動する「精神的な楽さ」を引き寄せてやっていくしかない。
 その手法は次の通り。
 
 ①自信をつける。
  これは筋トレをしたら人生が変わった的なメソッドと同じもので、無意識にオタクなぼっちが実践している内容である。
他者では到達できない異世界の自分という「厨二病という自信」を身に纏ってみるとか。もっと卑近な例を上げると「イラスト書き始めたり」「小説を書き始めたり」するのもその内の一つだったりすることがある。もちろん、全体からみれば一部かもしれないが、オタクとしての自分に自信をつけるためにそういうことをするのはよくある現象だと思う。どこでもいいので他人からマウントを奪えるものがあると感じれれば少しはましになるのだろう。労働能力でマウントを奪えるのがベストだろうが、そもそも労働が嫌いなはずなので、人間全般にマウントを奪える暴力を身につけるのがベストだろう。筋トレをし、バタフライナイフを胸に隠して歩けば強くなれる。
 
 ②何かを好きになる。
  労働が好きになれないなら、何かのために労働をしている状況を作り出すしかない。視点をちょっとズラして目を背けるタイプのそれなのでどこかで破綻するかもしれない。何のために戦うのかと聞かれた「仲間のため」と軍人が答えていたように、労働の目的自体を好きになれなくても、労働に付随する何かを好きになることはできるかもしれない。だが、そもそもコミュニケーションが嫌いな人間が何かを好きになることはないのであきらめた方が良い。

 ③お酒を飲む。
  理性的な状態だと「踏み込むことで相手に迷惑がかかる」とかを考えて話しかけられないが、お酒を飲んでしまえば考えるよりも先に手が出ることだろう。最近は会社に備え付けのコーヒーを飲む風習やペットボトルや缶コヒを飲まなくても良くなり、水筒を持って行ける環境ができあがっている。中身の見えないステンレス製の水筒に詰めたコヒにウイスキーを混ぜ合わせて辛みを感じた時に一口あおる。そうすればきっと幸せになれる。
 
 ④会社へのダメージを考える
  労働を生み出しているのは会社なわけで、自分という労働力が消失して一番ダメージを受けるであろうタイミングを考えながら仕事をする。できるだけ多くの作業をブラックボックス化しながら利益を積み上げていき、これ以上は無理だなというところまで積み上げてから退職をする。会社に残るのは無秩序で前後関係を把握できない引き継ぎ資料だけであり、後に残された人間は仕事の棚卸しと再整理に追われることになる。本当にやめてくれ、と思う。

 
 とまぁ、能力がない人間は気の持ちようでやっていくしかない。そんなごまかしでも進んで行けば経験値は溜まり能力を手にして自分で立ち上がることができるようになる。

 精神論は自分で立つことのできない無能に捧ぐ祈りだよ。

空の彼方の腕の中

常々思うのが自分の能力の低さである。
私はどこにいって、どこにカエろうというのだろうか。。
私には分からない。私にはわからない。

きっと海の向こうには星空がきらめく銀河があって、その星の果てでは私も空に恋をすることができたのではないだろうかと思っている、最近のストレス事項はなんだろうか。
他人がどんどん嫌いになりつつある。その一方で、他人を強く求め始めているということも感じている。
世界はだれも優しくない。世界はだれにも優しくない。

いつまでも夢の世界に居られたならば、きっと私はそこにとどまり続けるのではないだろうかと思う。
私は誰からも求められず、誰からも必要とされず、全ての世界に於いて代替品でしかないのだから。
私は代替品にはなりたくないのだ。
全ての世界に於いてオンリーワンになりたいのだ。

きっと。

そういうことなのだと思っている。誰からも愛されない今の自分から反転して、誰かから愛される人間になりたいのだ。元々やろうと思っていた音読とかそういうあれやそれやはどこか宇宙の彼方に消え去ってしまったのだ。
私は未だに何もできないで居る。どこにも到達できないまま空に恋して海に憧れて、何も手にすることができないまま地面とキスをしているのである。
どこに行けば、私は救われるのだろうか。


救われる。
救われたいのだろうか。
救いとは、なんだろうか。

なにがしたいのかがわからない、
何をすればこの悲しさやさみしさが満たされるのかが分からない。
仮に友達や恋人ができあがれば何かが変わるのだろうか。
何も変わらない気がしている。
だって、環境が変わっただけで、私が変わったわけではないから。

そこに救いは一切無い。

ああ、今からでも何かを好きになれるのかな。
恋に子追いするお年頃。
なんだろうか。私はどこに生きたいのだろうか。
しらなーい。