誰かにブログを応援されるということについて
無意識の善意は弾丸となって僕を貫く
◆『あなたのブログが応援されました!』
うつ病の人に対して「頑張れ」というのはアウトだそうだ。(知人談)
なんでも、頑張ってない自分が固定されているようだとか、もう頑張っているんだ、とかなんだとか。本当にうつ病だったのかは知りません。この小話に意味はありません。
それにしても、ブログが応援されるというのも奇妙な体験である。
実際に応援をしてくれたbern-kasteさんの記事を見てみると、なんというか気恥ずかしいものがあります。
他人に言及された経験もなく、どう返すのがベストかも分からないので、取り敢えず書くことにしました。
はてなの礼儀作法から外れていたら申し訳ない。
◆「どうしてブログを書くのか?」
私は書くことで、愛する。
それが私にできる唯一の『愛し方』
セカイを内在化する手段について、わたしは「書く」ことしか知らない。
昔までは大切にしたいことはノートに「書き写して」いたのですが、それだといつか風化してしまうことに気が付きました。好きな言葉を集めたノートは、切り崩された世界の断片でしかなく、そこに想いが残っていなかったんです。
自分の外側に残して満足していちゃダメだと気づいた時から、私は「文章」を作るようになりました。
自分の世界と物語のセカイを織り交ぜて新しい世界を創りあげていく。
あの時の千早の行動に私はどう思ったのか、春香の悲しみはどうだったか、比企谷はどうか、蛯沢はどうだったか、魔女はどうだったのかetc......
そういった世界の断片に『私』を織り交ぜて、私の世界を創りあげていく。
そうすることで、セカイと私を結び合わせ、愛することができる。
それが私にできる唯一の愛し方なのだと、今は思っています。
◆ブログを通じて他人と繋がるのはどうか?
悪い事ではないし、好ましい事でもあるのだと思う。
誰でも触れることのできるネット、という媒体を選択している以上、外側に何かを求める部分があるのだと思う。
それは、友達が欲しいのかもしれないし、お金が欲しいのかもしれないし、同志が欲しいのかもしれない。
私の外側にある理由は「面白いものを知りたい」というものだと思う。
受け身に回っていると、自分から外へ外へと出て行かない限り面白いものと出会うことはない。逆に、何かを発信していればどこかからか返信が返ってくることもあるだろう。
その先に、熱烈な愛が溢れていたり、強烈なセカイがあれば、私は嬉しい。
◆応援されてみてどうか。
不思議な気分だな。
エロ小説や普通のを書いていたときにも「頑張れ♡頑張れ♡」みたいなことを言われたことがあるけれど、今回のはまたちょっと違った印象がある。
多分、色々と考えた上での「応援」であったからだと思っている。
基本的に、「応援」っていうのは「無責任な善意であり、悪意」であると認識しています。
応援練習とか高校野球応援とか、あれを純粋な善意でやっている人は少ないし、負けそうになると手のひら返して「せっかく応援してやったのに」と、悪意に変わる。
要は、応援って世界の外側でしかなくて、対象から遠くにあるんです。
これは、どんな媒体でも言えることだと思っています。小説投稿した際の「応援」もこういった類のものだと思っています。
ですから、基本的には「無責任の応援」は信じないようにしています。イイねだろうと、スターだろうと、コメントだろうと、多分喜びはしても気にしないのだと思います。
で、今回の場合は記事としての応援なわけです。
私の感覚としては労力が大きく異なり、「信頼度」が変わってきます。
コメントで「頑張ってください」という一言を書き込むのに、たいした労力は必要ない。
もし、嘘だと思うならpixivでやってみるといい。思うよりも簡単だ。
対して、記事として書こうとすると思っているよりも面倒だ。
実際に伝えたい相手を意識するとどうしても言葉を選ぶ必要があり、難しくなる。
「もしも」を考え始めたら書けなくなる。間違って伝わったらどうしよう、私はそれで諦めた。
ですから、私は今回の「応援」は嬉しく思います。面倒な作業を超えてのことだと思うので。
もしも、違っていたら申し訳ないが、そう見えたので、お礼は言わせてもらいます。
ありがとうございます。
◆これから先はどう変わるか。
今のところ大きな変化はないように思える。
多分、以前と変わらず好きな事に対して好きなように書いているだろうし
私が分かるように書いているため、伝わる人にしか伝わらないままだろう。
もし、投稿期間が空いていたとしたら、言葉にできないような作品に出会ったか、たいした作品を見つけられていないのだと思ってください。丁度、今がその時期なので。
◆終わりに
大体こんな感じだと思います。
「応援」から無意識な善意を引きずり出して、「動機」からブログの目的を引きずり出して、「前後の記事」から架空人との繋がり、について考えた。
見事に、本筋から外れてしまったし、文章は散らかっている。
それでも、随分と内側が整理出来たように思う。
一応、本筋の「応援」に関して書いておこう。
その人の状況に応じて、善意は悪意にもなるし、重石にもなる。
目の前にいたとしても間違えてしまうのに、そうでない相手ならばなおさらだ。
そんなときに出来るのは、言葉に想いを託すぐらいだろう。
それならば、今はダメだったとしても、いつかはその想いは汲み取られるから。
いつか、想いは届くから。
最後になってしまいましたが、bern-kasteさん、この度は本当にありがとうございました。