huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

作品が望む最高の読者とは

「作品を楽しむ」ということを考えた時に気になったのが「読者の在り方」であった。

製作者が想定している読者こそが、理想であるのだろうか。
作品自体が望む読者はいるのであろうか。


◆理想の読者

『理想の読者』とはどんな人間なのだろうか。

「読者」の在り方は人それぞれである。
作品を通して誰かと触れ合いたい人もいれば、そこの世界に浸りたい人もいるだろう。現実逃避できればなんでもいいという人もいれば、ただの知識蒐集として読書をしている人もいるだろう。

人の数だけ「読者」というものはある。
「作品に何を求めるのか」という心の問題から「知識量の差」から「感性・理解力・集中力」なんて要因から作品を通じて見える世界は変わってくる。
つまり、人の数だけ作品は遍在するし、人の数だけ読者はいる、ということになる。

繰り返し言うようだが、「楽しみ方(愛し方)なんてものはいくつあったっていい」というのが私のスタンスだ。これまでの記事をみている人はそれを分かってくれると思う。
つまるところ、私としては理想の読者なんてものは存在せず、作品に相対する自分こそが絶対的な読者である、ということだ。

結論、理想の読者は貴方様自身です。

けれど、人はそれを良しとしない。
自分の愛し方など所詮道端のゴミ屑同然のものだと分かっているからだ。

人は比較をすることで安心をするものです。
確かな価値や意味を感じたいから、他のモノと比較する。
あいつよりはテストの点が良いとか、他の人と同じだから安心できるとか。

けれど、コンテンツで目立つのは「優れた愛し方」である。
はてなでもなんでもいいけれど、ググってみて上に来るのは大抵優れた愛し方だ。

そうすると、人は自覚するわけです。
あいつのことを一番知っているのは私ではなかったのだ、と。
私は何も分かってなどいなかったのだ、と。

自分の愛し方は『特別』でもなく『優れている』ものでもないと分かった人間は、「他人の愛」で擬態する。
これにはいくつかのパターンがあります。

1つは、大勢が承認する愛し方。
Amazonレビューを垂れ流すような人間から、まとめサイトの人間までがここに当て嵌まる。
ネットで簡単に手に入る愛し方です。そして、昨今はまとめサイトを見る人が多いので正しい側に入る愛し方だ。
簡単に身に纏える「安くて丈夫な愛し方」です。

もう1つは、優れている愛し方。
昔ならば、雑誌の紹介記事なんかが当てはまるだろうか。今ならブログやツイッターでも事足りるだろう。
「優れている」の基準はランキングでもアクセス数でもなんでもいいんです。
それを見つけて真似をするわけです。
これもカタチだけで良いならば簡単に手に入れられる「愛し方」になる。

こうした愛し方の擬態には理由があるものです。
自身の愛を守るための擬態であったり、承認を求めての愛であったり。
まぁ、なんにしても”自分という読者では作品の望む最高の読者にはなれないという自覚がある”んです。

このこと自体は前にも言った事です。
”僕が考えたって仕方がないじゃないか。それ以上のことがここには書いてあるんだから。”
自分よりも優れた読者がこの世の中には溢れすぎている。だから、自分で考えるよりも他人に擬態した方がいいじゃないか、と。

いったん整理しましょう。

理想
「作品と読者で世界ができる。なら、作品と相対する自身こそが最高の読者なのである」

現実
「作品と読者で世界が出来る。けれど、私では醜く劣った世界しか作れない」

つまるところ、
私という読者はその他大勢であり、余分なモノであり、居なくてもよい者であり、無駄なモノである。

私という読者には『価値』が無いというわけだ。


『価値』なき読者に『意味』などあるのだろうか。

●閑話
理想と現実とに分けて考えたけれど、別の言い方をするならば「正しさ」とかそういうの。
私の記事を引用するならば『正義の剣』っていうやつ。

先述した『理想』っていうやつはそういう類のものだと考えている。
誰もがそうならばいいのだと願うけれど、それは叶わないもの。
届きそうでいて手が届かない領域。
それが『理想』っていうやつだ。

言うは易し行うは難し

それが分かっているからこそ、他人には強要したくもないし、されたくもなかったのだけれど。
先日までの私はそれが分かっていなかったようだ。

知らず知らずの内に切りかかっていたんだな。
なんて無様


◆読者にも色々ある
読者といってもその作品との関わり方は異なってくる。

①作品を楽しむ人
②作者の意図や文章の意味を汲み取る人
③作品と自身を混ぜ合わせて”意味”を抽出する人
※作品で他人と関わりたいとかいう人もいるが、作品が中心ではないので省く

大体この三つだと思っています。
この中で読者に『価値』が必要だと考えるのは②番と③番の人です。

①番は作品を神格化しているわけでもなく、純粋に楽しんでいるので『価値』とか『意味』とかを深く考えることを必要としません。

②番以降は『価値ある読者』であることを考え始めます。
この辺りから、「こいつ面倒くさいやつだな」という視線が入るようになります。

作品に関わるなかで一番簡単な「価値」の創出法は、作品では分からないことを語ることです。
作品の内側に引き籠っていると知りえない「声優」とか「監督」とかそういう人の話を語るのがよい。
「知らない情報」っていうのを語ることは1つの「価値」となる。
一番簡単に纏える衣なわけです。

『作品』を楽しんでいる人からすれば「どうでもいい情報」なんですけどね。
だって作品とは関係の無い話ですから。作者とか監督がなんて言おうと、作品が語る言葉が全てなので。
『作品と周囲』を纏めて楽しんでいる人からすれば「価値ある情報」になる。

こういったところにも「作品に対するスタンス」が関わってくるのか。
作品を観る人と、作品とその周囲で見る人だと『価値』となるものが変わってきますね。

②番の人はこういった外的情報と作品とを結び付ける読者というわけです。
このタイプの人は作品の終着点に「作者」がいるということになります。

●閑話2
作品の終着点
読書スキーは一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

「読書を通じて、作者の理解者に成れ」という話。

作品の終着点には作者がいる。
作品の下で繰り広げられる闘争も思想の争いも何もかもが全て作者に還元される。
キャラクターを通じて、構成を通じて、私達は作者に至る。

作品は作者の域を超えられず、作品世界は人の下にひれ伏すのだろうか。
結局のところ、作品は作品であり、人を超えられないのだろうか。

私達(読者)は作者に至る事しかできないのだろうか。
………

③番の人は、作品と自身を混ぜ合わせて”意味”を抽出する人です。

簡単なモノだと、「私はこの作品をこう観た」というの。

ブログとかでもよくありますよね。
あの作品ってこういう”意味”じゃないの、というの。

最近書いた記事だと、「ドラえもんのお金が要らない世界」でしょうか。
あのコンテンツの中にのび太の目指したユートピアを私は夢想したのでそれについて書いた。
ドラえもんと私のSFスキーを混ぜ合わせた結果があの記事というわけです。

今期のアニメなら「甘ブリ」も”意味”を見出しやすいんじゃないかと。

キャストの人からみた「甘ブリ」
経営スキーからみた「甘ブリ」
エロ目線で見た「千斗いすず」

もっといろいろあるでしょうが、まぁそんな感じです。
これはやりやすいと言えばやりやすいです。なんせ自分に在るものと見えているものを組み合わせるだけなので。


ここから先に進んだものが、「作品から作品を作り出す」というの。
一つ上に書いたものは作品の切り口でしかないわけです。こっから見るとこう見えるよーっていうの。
結局のところこれでは主体は「個人」に移り変わってしまっている。
私が書いた記事もドラえもんからは外れてしまっていますしね。

対して、これは『作品の世界を再構築する』感じ。
いつもの言葉だと「作品を結晶化」させるってこと。

先述したものが「作品の切り口」だとするならこれは「世界」そのもの。
作品から受け取ったモノを自分の解釈の元で「世界」として再構築するわけです。

「四月は君の嘘」の演奏がそれだと私は考えています。
ベートーヴェンの作品を通じて、ベートーヴェンに至ることを目的とするのではなく
作品を通じて1つの「世界」に辿りつく。
宮園かをりも相座武も井川絵美も、そしてきっと有馬公正も。

音楽を語るなら音楽で
なら、世界を語るなら世界で語るべきだろう。

だからこそ、私はそこに至りたい。
”意味”を超えて”世界”で表現したいんだよな。
それが一番だと思っています。

情報→意味→世界

と変遷するにしたがって、難度は上がるけど読みごたえがある。
そうすれば未来の私にもキチンと伝わるだろう。

”意味”を深化させれば至れるのかな。
作品を内部化して、組み合わせ(混ぜ合わせ)られるようになればできるのだろうか。
それには感じることも理解することも必要で、それを表現する方法も必要だというわけだ。

ブログという媒体で「世界」に至るのは難しい。
描かれる文章の中に「人」や「セカイ」を幻視するようなことは少ない。
多いのは「看板」のようなモノばかりで、「セカイ」が見えるようなものは少ない。
表現の仕方なのか、理解・体験がまだ足りていないのか......
先が遠い。

◆作品が望む最高の読者
楽しむという観点で言うならば
「作品と相対する自身こそが最高の読者」である。

普通に観てほしいんですよ。普通に観て感じて、感じたことがたぶんその人のすべてで、その作品のすべてになってくると思うんで。
ラーゼフォン 出渕

これはどこまでいっても変わらないことだと思っています。
正しいかもしれないからといって他人の視点に無理やり乗っかる必要なんてないんですよね。
そんなことしたって、作品は見えてこないし、そんなやり方はつまらない。
自分で見るのが一番なんです。

価値という観点で言うならば
「作品を表現できる人が最高の読者」である。

楽しんだことをそのまんま表現できればいいんです。
実際にやろうとすると言葉が足りないとかで、表現しきれなくてもやもやするものです。
そういった風に、自分の言葉で作品を表現できるようになったら「自分は読者になれた」と思えるようになるんじゃないでしょうか。

別に作者が最高の読者というわけではないです。
作品のすべてが作者に還元されるわけではないし、作品の終着点は作者ではない。

作品は作者を超えるよ。

そうでなければ、

すべての被造物は「人」の下にひれ伏すことになる。
すべての物語は「人」の下にひれ伏すことになる。
すべての仮想空間は「現実」の下にひれ伏すことになる。
すべての人は「神」の下にひれ伏すことになる。

作品は作者を超える。
作品は世界であり、世界とは広がり続けるものだ。
だから、作品を一番理解しているのは作者ではないのかもしれない。
そんなことがこの世界では起こり得る。

だからまずは作品を表現することだ。
そうしてみて初めて自分という読者が価値なきもの(意味はある)であると分かる。
そこからゆっくりと深化させていけば、「自分はこの作品の読者だ」って思える時がくるから。
どうしても「価値」ってものを考えてしまう人はそうするしかない。
けど、そうすれば読者になれる。

作品はいつだってそこで君を待っている。

それでは、作者を超えた先で。