huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

アニメ雑感

アニメ雑感

今期のアニメの雑感をテロテロと書きました。
完成するまで批判的に見てしまうのは、傷つかない、ショックを受けないための防衛線を張っているのだと思ってくれると嬉しいかなって。

■艦隊コレクション

艦コレは誰一人も救うことなくその生涯を終えようとしている。
全てのユーザーを救おうとして、その全てを失おうとしている。
誰でもない、どこにもいない、中空に向けられた作品は報われることなくその場に留まり続ける。

 

 

 

どんな作品にしてみても、楽しみ方はいろいろあるものですが、大抵は次の項目で分けられるんじゃないかと思います。

①キャラクターが好き
②脚本が好き
③技巧が好き
④監督が、声優が、作家が好き
⑤話題性が好き

大体こんなところじゃないだろうか。
艦コレの場合はこの全てが期待されていたように思う。

私にとって、艦コレとは熊野であり、鈴谷である。もちろん、雷でもあるし、榛名でもある。
ようは艦コレのキャラクターが好きなわけです。
だから、アニメに期待していたのは、熊野と鈴谷がちゅっちゅっしてくれていればよかった。雷が世話をしてくれればよかったし、榛名が可愛ければよかった。
けれど、アニメはそんな感じではなかった。よくわからんホバーをするは、3Dだったりして、期待していたようなものは見えてこなかった。むしろ、敵側の方が可愛かったり、カッコいいようにすら見えた。どうしてそっちなんだ……
3Dの表情が好きになれきれない私は艦コレにキャラの可愛さを求めるのを諦めた。鈴谷も熊野も出てこないし。

それで次に期待をされていたのが脚本だろう。
ゲーム上では曖昧であったあの世界をどのように規定するのか、人と艦娘をどのように描くのか、とかそういったものとか期待していた。自分の中の脳内設定に色々と補完したいなーって思っていたわけです。
けれど、これだ!って感じの設定とかは見当たらなかった。駆逐艦組の授業風景はハラショー(エリチでない)でした。すぱしーば。
けれど、如月が轟沈させられた(「した」ではない)ことで、自身の艦娘がどのような扱いを受けるか分かったものではないと多くのてーとくが思った。だから、こそ多くの提督が彼女の死に何かの意味を見つけようと、ダークファンタジーの方向に向かうことを求めてみたりするようになった。(次話で建造されるとかそういうの)
そして、4話ではサラッと如月の死は乗り越えられた。つまり、彼女はお涙ちょうだいシーンのために沈ませられたのだ。

4話以降の楽しみは那珂ちゃんくらいなものだろうか。多分、彼女は沈まない。
ここから先にあるのはただの「惰性」にすぎない。取り敢えずデイリーを回していた時と同じだ。何の期待もなくゆっくりと艦コレは轟沈していく。誰の目にもとどまることは無いままで。

ただ、まだ謎は残っているのでそれに期待したい。
・他の鎮守府
・提督の不在
・増えない艦娘
・まだ出番が無いデチ
・解体

守るべき人類はもういない。
愛すべき提督はもういない。
彼の意思を引き継いで、彼女たちは戦い続ける。
デチ公はオリョクルに。天龍ちゃんは遠征に。そして長門は提督の代わりに。

闘いの傷は癒すことが出来る、けれど、新たに艦隊を製造することはできない。
それを出来る人はもういないから。

長門は独りで戦い続ける。
鎮守府の皆を欺き続けながら、提督の墓標に勝利を刻むために。

こんな展開でなくてもいいけれど、何かしらの理由を見出して欲しい。
そういう風になっている理由が、視聴者の為とかそういったものなら余りにも味気なさすぎる。

そういえば、彼女たちが戦う理由はなんなのだろうか。
彼女たちが兵器でしかないとか、モノでしかない、といった描写が薄い。だからこそ、戦うのに理由が欲しい。

いや、そうした考え方が間違いなのだろうか。
彼女たちの闘いに人間が巻き込まれただけだとしたら、どうだろうか。
彼女たちは侵略者と戦っているわけだ。
そして、アニメの描写の限りではその戦いに人類は必要が無い。

人類は彼女たちの闘いに巻き込まれただけだ。
なら……あれはジャムだ!

結局のところどうなんだろうか。
人間が描かれない限り、彼女たちは兵器では無くなる。物ではなくなる。
単純なバトルファンタジーに成り下がる。そして、人は庇護される存在になる。

曖昧な世界観が多くの提督の艦コレを造りだした。
そして、その世界が「アニメ」の存在によって駆逐されようとしている。
正史以外の正しさを得たキャラクターや世界が、そうでない世界を侵略する。
間違った世界を侵略する。

 

そして誰もいなくなった、なんてことにはならないでほしい。
そう思うくらいには熊野や鈴谷を見ていたい。
黒歴史としてではなく、1つの世界として確立されて欲しいと切に願う。

 

■シンデレラマスター

期待するも何も、好きなので見続ける作品。

始めて引いたSRのみくにゃんが出た時は嬉しかったです。
後はもう少し、ウサミンにスポットが当たってくれると嬉しいところ。

 

何か書くとすればライブシーンだろうか。
今までいくつかのアニメのライブシーンを見てきた。
例えば、アニマスとか、ラブライブとか、ワグとか。
アニマスの時はとうとうここまできた、って感じがしたし、ラブライブの時はスッと冷えてから込み上げてきたし、ワグの時はパンツって感じがした。

今回比べたいのは、アニマス。同じライブだけど違うライブだった。
アニマスの12話の時は先も書いたように、「とうとう」とか「ようやく」とかそういった感情が伴っていた。これまでの活動をしっているからこその感情が込み上げてきたし、それだけに感動した。美希の気持ちも伝わってきた。
それだけに印象深いライブだった。

対して、シンデレラマスターのライブは文字通り、シンデレラみたいな感じだった。

選ばれて、練習して、ライブに出て、成功して。
まるで魔法にかかったみたいにトントン拍子。

もちろんそれまでの練習の様とかは見ていたから、そのすべてが魔法みたいだ、などとは思わない。が、アニマスの時に比べるとどうしても同じキラキラでも違うキラキラに見えてしまう。練習試合とか予選とかそういったのをすっ飛ばして甲子園に行っているような。単純に、それほど彼女たちのことを知らないからかもしれないけれど、このまま進んでしまう事に不安を覚える。


それと、私の知っているアイマスとは違うのだな、ということも感じた。
私の中のアイマスはプロデューサーとアイドルは一番近い存在であるように感じていた。竜宮小町の律子のように、ざわわんのPのように、赤羽根Pのように。
シンデレラマスターでは、アイドル活動の全てが彼女たちの中で完結してしまっている。プロデューサーは現場のスタッフ同様サポート側の人間であり、大勢の内の一人にすぎない様に感じてしまう。765プロとは違うのかもしれないと感じてしまう。

フムン、765プロとは違うというのが違和感だったのかもしれない。
アニマスの中心には765プロがあった。

なら、シンデレラマスターの中心には何があるのだろうか。
その中心にプロデューサーは存在しているだろうか。
彼女が迷子になったときにはどこに帰ってくるのだろうか

ここから先に描かれるであろうプロデューサーの立ち位置、彼女たちにとってのアイドルとは、そしてアイドルになる理由、みくにゃん、ウサミン、そんなことに注目していきたい。

 

 

 

■冴えない彼女の育て方

「育てる」「冴え」なんてキーワードを聞くと、なにやらSFの匂いがしてくるが、その実はゲーム制作の話である。
何故か専門的な能力を兼ね備えた人間が同じ学校に在籍している辺りは、知的生命体が発生する確率よりも一つの種族が宇宙を支配する可能性の方が高い話を彷彿させられるが、あくまでもそんな世界であるので、それは考えないこととしたい。
優れた人間は引き寄せあうもので、学校という狭い空間にそうした凄いやつらが揃っていても不思議ではないのだ。
一概にこの設定は馬鹿にできるものではない。昨今の状況を垣間見れば、あれほど優れた人間はそろっていなくとも、それに近い、準ずる人間を集める事はできるんじゃないかなぁと思う。見た目は別にすれば。
だから、私としてはこの設定に特に不信感もなければ、違和感もない。そのすべてが女性であり、何故か主人公が好かれているということを別にすれば。

女性が恋に落ちる瞬間は知らないが、初めから恋に落ちているのは書く側としたら楽なのだろうか。
描写されている世界の後ろ側(あるいは下)に積まれている見えない歴史を使うことが出来るのだから、それに説得力を持たせることは可能である。
何が言いたいのかというと、突然出会ってそのままゴールイン、というよりかは、幼馴染だったからとか、昔に助けてもらったとか、そうした見えないイベントがある事で恋の理由づけが容易になされることとなる。だから、過去を頼るのは書く側としては楽なのではないかと思うし、そうすることが適切である場合も多くある。この作品がそういった必然性に満ちた「恋」であるならば嬉しいのだが。

こうして「恋」なんて言葉を使ってきたが、それが明示はされていない様に思える。ただそれとなく好意らしきものを伝えている、ちらつかせている段階である。まだ塞き止められている。それが決壊するとどうなるのだろうか。

私がこの作品に感じているのは、面白いというよりは何も考えなくて済む、である。ただ在るがままに受け入れているだけで良い、というラノベ特有の気軽さでもある。ラノベ特有などというと、方々の人に怒られるかもしれないが、実際にそうなのだから仕方がない。ラノベはそうした消費されるコンテンツでもあるからな。仕方ない。

後は、平凡な衝突を起こして、平凡な仲直りをして、平凡な落ちを付けて、平凡に終わってくれればいいと思っている。この作品にはそうしたちゃぶ台返しにも似たどんでん返しは期待していない。ただ、それとなく終わって、来期には忘れてしまうような作品であってほしいと願っている。いい感じに時間が潰せる作品。

ラノベってのは大抵、そうしたものなのかもしれない。
いい感じに時間が潰せる作品。あってもいいし、なくてもいい。人生のクオリティ的には無い方がよいのかもしれない。

ラノベの話はもういいか。

端的に言うと、この作品はラノベ原作のアニメにしか見えてこない。
下手をすれば、「人生」と同じように数話で切れてしまいかねない作品だ。
時間があるなら見ているだろうし、時間がなければ観ていないだろう。
でも、観ている。

現状は、そんな感じ。


■終わりに
前期から継続視聴しているのを除けばこんな感じだろうか。
いつの間にか、デュラララが忘却されていたな。今度書こう。ユリ熊も忘れてた、なんでだろう。

冴えない彼女には思っているよりも期待しているようだ。
普通のラノベアニメっぽい感じで終わって欲しくない、という願望が見て取れる。
こんなに色々言っておいて視聴している辺り、私はツンデレらしい。

今期はこの三つ以外で見続けているのは惰性になるのではないだろうか。
忙しさに埋もれてしまわない「愛」があればいいのだけれど。

それではまた。