huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

感情が減退する。

 

 

  100年ほど前の世界には「ブログ」なるものがあったらしい。そこでは、自身の感情の動きを自由に表現することが可能だったし、それを通じて他人と感情をぶつけ合うことだってできたそうだ。昔の人はなんて贅沢だったのだろう。

  ーーー僕達人類は緩やかに感情を喪失していった。

  昔の人はこうした現象を「若者の○○離れ」なんていっていたらしい。感情なんていう個人の根幹に関わるものを原因にするよりは、若者が悪いとかピコピコが悪いとかにした方が安心できたんだろうな。しかも、その当時は消費に貢献しない若者を煽るためのズルい大人の文言でさえあったのだが、今では感情が薄れ始めたきっかけと考えられている。以前よりも感情の波が小さくなり始めたというわけだ。これに呼応したのか、若者の個性が云々、均質化だのといったことが言われるようになった。そこから先は、君たちが今直面している消費活動の減退や少子化とかそういった問題に繋がっていく。どれだけ優れたシステムを作っても、内側で行動する人間がダメになったらどうしようもない。ただ、それだけの話だ。

  多分、君にはどんな世界かイマイチ掴めていないんじゃないかと思う。愛と勇気が標準装備じゃない世界なんて考えつかないだろう。

  感情が標準装備だった頃は、どこにあっても「個人」が存在していられた。同じ環境でも違う人間が育つように、ちょっとした差異が人と人の間には存在していられた。雪を見て楽しいと思う人もいれば、怖いと思う人もいたし、美味しそうと思う人だっていたのだろう。そうした些細な違いを享受することができたのは感情のおかげだったんだ。以前に記した「思い出」何かも個人の感情と結びついている。それくらいに、人と感情は切り離せないものだった。

  君たちの時代からもう数年経つと(もう何人かは現れているだろうか?)個人を掴めず、奇抜な行動を取る人間が現れるだろう。彼らは、自身の感情が他人の感情と区別がつかなくなり、個人を喪失してしまうのだ。どこにでも他人を顕在化させられるようになった反面で、どこにでも自分を見出せるようになったのが原因だ。一人の時間が少なかった人間ほど自分を喪失してしまう。それは、感情の在り処を内側に持っていないから。

  つまり、感情を失った未来の私達は自分を規定することができなくなった。自分の体験も、自分の思い出すら持ち得ない人間が自分を規定することができるだろうか。

  そんな僕達は作品に感情を添付して楽しむようになった。ただ普通に作品に触れたところで心を擽られたりしないから、いっそのこと感情を付けてしまえというわけだ。「ここ、笑うところ」「アレは悲しい」とかのカンペを高尚にしたとでも考えてくれればいい。その結果、クラナドは人生でしかなくなり、フェイトは文学でしかなくなり、わっちは経済でしかなくなった。一つの作品に一つの意味しかなくなったわけ。そうでもしないと作品を自分の内側に入れられなくなったのさ。

  しかし、それにも限界が見えてきた。感情を再び獲得しようとする意欲さえも減退してきたからだ。

  どこぞのロボットのように人の間に居るのなら、感情を必要とするかもしれないが、感情が必要ない世界で生きていれば、感情を求めようとは思わないだろう。つまり、今の未来には感情がなく、遠くない未来に人類は衰退するだろう。