かくして僕は「本質」に逃げ込んだ
「本当」とか「本質」とかそういった目には見えない曖昧なものに
何も無い僕は縋りついた。
◆着飾る事は悪である。
俺は着ているものになんてこだわらない今どき珍しい硬派で他人にどう思われようが好きなものを着る、それが俺という人間だとぬかすか。
―田中ロミオの世相を切らない
今頃の学生はどうかは分からないが、「本当の自分」というキーワードにこだわっている人間が私の周りにはいた。
就職活動の時にそういった人間が現れていたのである。
就活のテクニックとか、印象を良くする受け答えとか、そういったものを全て排除して、「ありのままの自分を受け入れてくれる場所」を求めている人が居た。
いつもいっているが、それ自体は悪い事ではない。
ただ、こういうことを言う人間というものは多くの場合「逃げ」として、「言い訳」として「本当の自分」を作り出している。
「本当の私はもっと評価されるべきであり、世間は見る目を持っていない。
私の本質が見えていないのだ。」
大抵はこんな感じなんです。
着飾っていない素のままの自分を晒しておきながら、本人以外のどこが見られるというのか。どうして本質が受け入れられていないと理解できないのか。
着飾らないのではなく、着飾れない。
一人で居るのではなく、集団になれない。
他人と違う道を歩いているのではなく、同じ道を歩けない。
外に居るのではなく、内に入れない。
ただ、それだけの話である。
何いってんだこいつ、となるような人はそういう人ではなかったのでしょう。
もし、何かを感じてしまったのなら、そういう人だったのでしょうな。
時折、こういったことを考えてしまいます。
私はどっちだったのだろうか、と。
選択したのか、選択されたのか。
要は、主導権がどちらにあるのか、という問題になります。
自分でそういう道を選んだのか、そういう道を選ばされたのか。
後者の場合、その後はずっと自身を嘘で守り続けていかなくてはならない。
選択されたのではなく、選択したのだ、という嘘を吐き続ける事になる。
これは思っているよりも辛いもので、後になればなるほどその嘘から逃れるのが難しくなる。
出来る事ならば、前者でありたいものだ。
そう思ってしまった時点で後者なのだろうけれど
◆文章力だけで勝負する!
もう少し話が続きます。
「着飾ることが悪」という考え方は、上記の青春以外にも適応される。
今回、取り上げたいのは「文章」というか「ブログ」である。
「自分だけが分かればいい」とか、「読みたい人だけ読めばいい」なんて言った風に
硬派を気取ったブログが存在します。はい、私ですね。
「自分のための文章」という事にすれば、誰かに伝わらなかったとしても
仕方がないということにすることが出来る。
「文章だけで勝負をする!」という事にすれば、デザインや魅せ方を勉強しなくても
良いという事になる。
マイナス方面に捉えると、「やらなくてもいいから」という選択に見えてきます。
「できることをやる」というよりも「できること以外を見ない」という感じ。
分水嶺としては、「相手に強要するかどうか」にあると思っています。
例えば、「文章だけで勝負する!」という目標を持った人が居るとする。
その人が、魅せるレイアウトで書く人を見て、「虚飾に呑まれた愚鈍な人間」と評価するならば、その人は文章以外に対する未練や劣等感があるのでしょう。
ラノベと文学書の比較とかにも関わってくるのだろうか。
文章だけで伝えるのか、伝えたいことの為に文章以外の手法を用いるかどうか。
自分が出来ないことをやっている人を「馬鹿な人……」と評してしまうのか。
他者の美点を褒めることなく貶さなければ生きていけない人間であるかどうか、か。
さてはて、私はどちらの人間であるのだろうか。
文章に操を捧げた人間か、文章に逃げ込んだ人間か。
◆何も伝わらない。
4人で合わせた時もめちゃくちゃ楽しくてさ
俺、思ったんだ
このバンド 絶対面白くなるって!でも…あのおっちゃんには伝わらなかったなぁ…
俺達が楽しいだけじゃだめなんだ
俺もっと上手くなりたい、上手く伝えたい
―フジキュー
誰かに言葉を届けたいと思ったならば、
それに見合うだけの努力をしなくてはならない。
必要であるならば「魅せる」ための演出を磨かなくてはならないだろうし、
必要であるならば「文章力」を磨かなくてはならないだろう。
虚飾に呑まれて、自身を失ってしまってはしょうもないが、
飾ることを避けていては駄目なのだろう。
文章を書くことは楽しい。
けれど、誰かに伝えたいと思ったなら楽しいだけではダメなのだろうな。
■ブログの在り処
さて、そうするとブログはどうなるか、ということが気になってくる。
誰かに伝えるために文章を書くのか、誰かに伝えるために文章を書くのか。
これまでは文章を書いていればそれでいい、と思っていた。
だから、レイアウトやフォントといったものを意識したことは少ない。
というのも、「伝えたい」よりも「考えたい」が優っていたからだと思っている。
疑問とか作品とかテーマについて考え、整理をしたい欲求が強く、それを誰かに伝えたいとは強く願ってはいなかったのだろう。
しかし、誰かが見ているかもしれないという状況になると話は変わってくる。
私のブログ活動に他人が介在したときに初めて、誰かに伝えたいと感じるようになるのではないだろうか。
今のところそうした欲求は少ないが、こうして自覚した辺り、その時は近いのかもしれない。
その時は、精一杯伝えるように努力しよう。
◆終わりに
僕等は「選択」をしているのだろうか。
理解できないものに蓋をし、「本質」という曖昧なものだけを真実にしていないだろうか。
現実生活はもちろん、こうした文章でも、「本質」に逃げ込んでいるのではないか、と思う時がある。
それは弱気になっているときだ。
自信があるときは、「選択」の有無を問わずに歩いていられる。
自信がないときは、「選択」を先送りにしてしまっている。
選ばないことすら選ばずに、目を閉じて泣き叫ぶ。
それもそうだろう
何も持っていない人間は確かなものを手にできない。
だから、曖昧なモノに縋りつくしかない。
逃げ続けていてもいつかは選択しなくてはならない。
選択者の理を受け入れなくてはならない。
選択の先にあるリスクも幸福もすべてを受け入れなくてはならない。
それでは、また。