huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

ブログにおける他人の存在―色んな人のブログをみたよ!

 

ブログと他人と私の在り方

コンテンツ

◆ブログの関係性

◆ブログコミュニケーション

◆コンテンツの感想について

◆終わりに

◆備忘

 

◆ブログの関係性


ブログには「書き手」と「読み手」以外の関係性が存在してる。
そのことに気がついてはいたものの、目にいれないようにしてきた。
なぜならば、知ってしまえば意識せざるを得ないからである。

元来、私は不器用な人間である。
二つ以上の事を同時にこなすなど到底できようもない。
「書く」という行為でさえ不十分であるというのに、「会話」や「レイアウト」
といった行為まで十全に為すことは不可能であり、不誠実である。

そういった理由で、「書く」ということにある程度の納得が出来るようになってから、
それ以外の項目にも手を加えようと考えていたわけである。

しかし、今になって思えば【するべきことを遠ざけていた】のに過ぎない。
もちろん私の性格上、二つ以上の内容を同時に為すことができないことはある。
が、出来ないからといってやらなくていい理由にはならない。

【一つの正当性で以って、もう一つの正しさを遠ざけていた】

確かに、「書く」という行為を追求することは必要である。
そうであるからといって、「伝える」を欠いてしまって良い事にはならない。

「正義の剣で切らないで」の変化球かもしれん。
正しさで以って、もう一つの正しさを誤魔化していた。

今一度、自身のブログ活動を見つめ直す。

◆ブログコミュニケーション


先述したように、「書き手」と「読み手」で完結しないのがブログである。

むしろ、【供給と需要の関係で完結しないこと】がブログの味であろう。

どういうものか、というと難しいところである。
私の視点から述べると、「読み手」が「書き手」に立ち入り得る、というところだ。
適切な言葉ではないのかもしれないが、そういう感じ、である。

もう少し別な言い方をすると、消費者が供給者と共にある、という感覚だろうか。
一言で言ってしまうならば「双発」ということになる。

○○さんの記事に刺激されて、××という記事を書いた。
コメント欄にあった言葉が気がかりで、それを掘り進めた。
コンテンツに対するスタンスが対極にある人と闘い続けた。

関わり合う手段は色々とあるようだ。
当人のブログで行われることもあれば、ブログ間で行われることもある。
ともすれば、ブログが連合して星間戦争のようになることもあるかもわからん。

こうしたコミュニケーションは、お互いに刺激を与えあう関係なのだろう。

などと書くと、
「相互シナジーによるwin-winの関係構築しよう」みたいに聞こえる。
間違ってはいないのだけれど、間違っていてほしい。

関係性はもちろんこれ以外にも存在している。
単純に観測し続けるだけの読者、一緒にがんばろーねって人、お星さまを取ってきてくれる人
そして、アンチ。

有名な人のブログを拝見すると、アンチなるものを見る時がある。
縁遠い話であるので、身近になったらこれについても考えてみたいところである。

ブログコミュニケーションに関しては以下の言葉で締めよう。

ファインダー越しに覗くだけではもったいない場であると私は感じた。
「同志」も「敵」も存在し得るブログにもう少し足を踏み入れていく。
近くで見つけたらよろしくお願いいたします。


◆コンテンツの感想について

人様の記事を拝見していて思う。
私は「感想」ってものが苦手であるようだ。

【正確にいうなら「感」が苦手だ】

感じることしかできない作品に対して文章を書けないでいる。

最近書いた二つの作品がそうだ。
あの二つの作品に共通しているのは「純度が足りてない」ということだった。
要するに、娯楽の域を出ていない、というわけ。

極端な話、すべてのコンテンツは娯楽に過ぎない、といってもいい。
つまり、私達は娯楽でしかない、暇つぶしでしかないモノに時間を浪費しているわけである。

けれど、そうした娯楽に過ぎないものに何かしらの意味や世界を感じてしまうことがある。

それは多分錯覚に過ぎないものだけれど、大切で忘れがたい感覚なのだと思う。
私はそうした瞬間が感じられた作品を「純度が高い」とか「結晶化」といった言葉を使っている。

そしてそのコンテンツはもう私にとって娯楽ではなく、世界そのものである。

デレマスとかが特にそうだろうかな。
あの三人の行く末、プロデューサーの在り方、渋谷凛のアイドルデビューはいつか、グループとして大丈夫か
なんて風に、【感】じたことから【想】像が広がっていく。
他人からすれば、これは「妄想」に見えるのかもしれないな。

【感≦想】

だから、私が書く記事というのは「感想」ではないのだと、思っている。
面白かったから面白かったと書くわけではないし、悲しいからといって悲しかったとは書かない。
どちらかというと、感じた先に、もしくは後ろにあるナニカを想い、それを言葉にする。

 

そうなると、作品における「正しさ」を内包していない可能性も出てくるのがやっかいである。

事実から遊離した「想い」は「妄想」に過ぎず、際限がない。
感じたことならばまだ作品から地続きでいられるが、想像になると作品から離れかねない。
そこはまた、私の課題なのだろうな。

 

であるからして、もし私のコンテンツ系の記事を読む際は気を付けてほしい。
作品の感想ではなく、多分に私が盛り込まれた「妄想」になっているであろうから。

◆終わりに


他人のブログを視るというのはいい経験だったかもしれない、と思う。
これまでは消費する立場として「読み解く」「バカにする」「尊敬する」といったことしかしていなかったが、
書き方や魅せ方、伝え方に使い方を学ぶのに他人は一番なのだろう。

当面の目標は【不快にさせないブログ運営】だろうか。
レイアウトしかり、カテゴリ整理しかり、やるべきことはいくらでもある。
そうすることが大切なのだろうな。

その先に、期待するコミュニケーションがあると嬉しいな。

それではまた、遠くない未来で。

◆備忘


面白味に欠けるものや、他人のブログばかりを読んでいると、そうしたものに埋没してしまう。
臭いものも中に入ればわからぬ、というように分からなくなってしまうだろう。

【人は人に影響される】
【これは世界共通のルールだ】
【現実にしろ仮想にしろ僕らは人に影響される】

その影響はまず【言葉】に表れる。
【自身が用いる言葉には関わってきた人間の色が強く出る】
知らぬ間に言葉を共有し、言葉に毒され、意識が融解する。

言葉に関するズレを感じたら書物を読むことだ。
それも自身が認めた、生涯ともにする価値のある書籍を、だ。
それをゆっくりと身体に通していけば、どうズレたのかが分かるだろう。

良い方向にズレていたのなら、それでいい。
しかし、違和感というのは往々にして悪い時に感じるものである。

言葉のズレは認識のズレを引き起こし、意識さえも混濁させる。
もし、違和感を感じたならばその根底にある【言葉】を見返すことだ。
言葉は全てに通じるよ。

そのことをゆめゆめ忘るるなかれ。