huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

言葉が安売りされる時代

 

遠い昔、「言葉」は貴重なモノであった。
人間と言葉の出会いは一期一会であり、僕らが出会える言葉も限られていた。
限られた言葉でもって、自分の言葉を形成していき、想いを伝え続けた。

そんな、僕らと言葉の関係が変わりつつある。

「紙」という媒体の脅威を超えて、「インターネット」は広がっていく。

紙の時はまだよかった。
書籍として世界に言葉を発するにはある程度の制限が掛けられていたから。
優れた人間や、優れていると思われている人間とか、そういった人しかいなかった。
僕らは「紙」を通じて「良質な言葉」と出会えるようになった。

ただ、「インターネット」だけは別だ。
世界の言葉を発せられるのは限られた人間ではなく、隣の席に座っているような人間だ。
どんな振るいにかけられることもなく、言葉を発することができるようになった。

僕らは「言葉」を発している。

◆言葉とは力である
「言葉とは力である」というのは、端的に言葉の脅威を表している。
言葉は人を傷つける事もできるし、人を守ることもできるし、人を変えることもできる。
用い方によっては、個人の認識を変え、人格を変えてしまいかねない存在である。

近年は、「願い」や「祈り」、「呪い」といった性質を忘れた言葉が増えている。
感性的だと言ってしまえば簡単だが、理性を欠いているというとその恐ろしさが伝わるはずだ。
考える事もなく、言葉を獲得し、言葉を利用し、言葉を流行らせる。

そうなってしまうのも、当然である。
インターネットは「力を持った言葉」を刺激として利用する。
本来言葉が持っている意味や歴史を蔑ろにして、ただの刺激物として利用する。
「言葉」の「力」だけに魅せられて、理解もせずに、その「力」を振るってしまう。


端的に言ってしまおう。
僕らは「言葉を知らずに」言葉を用いている。
そして、「知らない言葉」を我が物顔で振り回している。

◆言葉とは情報である
言葉とは本来「伝達する」という意思の下発せられる。
ゆえに、「言葉を情報」として捉えるというのも当たり前の行動である。

ただ、言葉は情報以外の意味も持ち得るのである。

情報を伝達するだけならば、言葉を用いる必要などない。
正しく伝えるためには「言葉」は要らない。
私はそんなことのために「言葉」を用いたくない。

情報伝達の為の言葉、は、私は嫌いだ。

言葉が情報化される。
それが一番の懸念なのかもしれない。

言葉は本来「生きている」
言葉は本来「力を持つ」
言葉は本来「自由である」

僕らの世代は言葉と出会うことが容易になり過ぎている。
「紙」という媒体すら「ニーズ」に押され、言葉が安売りされる。
「インターネット」では、言葉を知らない人間が知らない言葉を安売りする。

言葉と出会う感覚、が僕らの世代には欠けているのかもしれない。

魅力ある言葉に容易に触れられるようになった今
一つ一つの出会いを噛み締める、そんなことができなくなっている。

◆感想文
感想文を書く一番楽な方法は「引用する」ことである。
作中の言葉を引用して、「僕はこう思いました」なんて書けばそれで完成する。

「学生の読書感想文」ならば、それでいい。
「情報を伝えるため」ならば、それでいい。

ただ、作品を紹介する場合、それはどうなのかと、私は思う。

その言葉と出会えるのは一度きりである。
その出会いの瞬間だけを切り取って、刺激物として並べる。
それは随分と自分本位なやり方だ。


それは見栄えのよいものになるだろうさ。
作品の「素敵な言葉」が文面には並ぶことになる。
「力」に溢れた言葉を「そのまま」切り取るという行為。
感情が行き着いた先にある「言葉」だけを書き連ねる行為。


私と言葉との出会いを奪わないでくれ。


◆終わりに
感想を書く人間は「ネタバレ」というもの気にする。
その割には「言葉のネタバレ」に関しては寛容である。

ネタバレはしませんと言いながら、言葉を軽々しく引用する。
犯人の名前さえ言わなければいいと思っているのだろうか。


……感想を書く人間は本当の出会いを奪っている。


そのことを意識して書かなければ、「嘘」だよな。