huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

コミュニケーション能力について

コミュ力という幻想に捉われてしまうのは、
その人がぼっちだからだろう。

コミュ力とは何か?

正直な話、「コミュ力」とか言われてもよくわからない。

広義なコミュニケーションの定義を少し出してみるとこんな感じだ。

「記号=情報の伝達・交換によって、記号が表示する意味を共有すること」
(コミュニケーション論)
「相手と意思を伝達しあう技術。ある感情・目標をひろく共有するための手段。」
はてなキーワード


「コミュニケーション」の手段は無数にあり、
 その意図もシチュエーションによるため、
 一概にまとめきることは不可能だ。

そして、多くのぼっちが望んでやまない「コミュ力」は
コミュ力」の書籍を読んでいても手に入れることはできない。

彼らが話す「コミュ力」と、ぼっちが話す「コミュ力」は別物だから。

会話の先で「コミュ力」が必要になる。

世間一般でいう「コミュ力」ってやつは、
「普通の会話」ができることが前提となっている。

だから、「そういう本」に書かれるのは下のようなものである。

・自分の思い通りに伝える方法
・今まで以上の関係値を築くための方法
・よりよく見せるための仕草・作法

めだかボックスのめだかちゃんが「ケアレスミスをしないための方法」
を教えている話があったが、それと同じだ。

「会話」ができるのは当たり前で、
自分の意図を深く伝える、自分の意図を正しく伝える、
そういうことのために必要になるのが「コミュ力」なんだ。

だから、それ以前の人間(つまりぼっち)には
「コミュニケーション」をとるために必要な基礎が必要となる。

コミュニケーション以前の問題

相手が使う言葉(記号)を自分の経験や知識を通じて意味内容を読み取る。
それがかなわない場合、その場の状況に応じて意味内容を把握し、解釈する。
コミュニケーションはかならず「自己」を通じて行われ、自己は生まれて以来、
コミュニケーションのたびに新しい情報を経験・知識のストックに加えて成長する。
(コミュニケーション論)

ようするに、経験値を積めという話だ。
コミュニケーションの基礎はコミュニケーションでしか培えない。

だけど、ここで気をつけなくてはならないのが、
「コミュニケーション」とは「うまくやりすごすための処世術」ではない、ということ。
以下の本を読めば感覚的にそのことがわかると思う。
(それほど面白くないので読まなくてもいい)
俺たちのコミュ力がもはや学園異能バトル ラブorライク? (集英社スーパーダッシュ文庫)

要点を書いておくとこんな感じ。

「やりすごす」っていうのは、
RPGでいう「逃げる」っていうコマンドとほぼ同じなの。
得られる経験値なんて微々たるもので、
やりすごすだけじゃ、いつまでたっても伝えたいことは伝えられないよ。


……コミュニケーションの基礎構築の期間を
「飾り立てること」や「技術」でごまかしてしまうと、
本当に伝えたいことが、どうやっても伝えられない人間になってしまう。
「意思を伝える」ということができなくなってしまうんだ。

だから、コミュニケーションの基礎段階では
「ただ伝えること」を楽しむのが一番大切なんだ。
「技術」ではなく「体験」が大切なんだ。

そのことさえ、忘れなければどうとでもなるさ。

(小話)読書をすれば「コミュ力」は上がるのか

 言葉の海で
 言葉を探して
 言葉を知って
 色んな世界を
 本で知ってきた
 ――狼少年は今日も嘘を重ねる

読書体験は個人を豊かにする。
そのことに間違いはないのだと思うけれど、
コミュ力向上のために本を読んでいる人の話は面倒くさい。

教養と銘打って「読書」を行う彼らは面倒くさい。
楽しむというよりは情報収集でしかない。
知らないことを知るために本を読んでいるだけだ。

では、何かと「出会う」ために本を読む人はどうだろうか。
私の所感では「まちまち」というところだ。
話すのが上手い人もいれば、話すのが得意でない人もいる。

以上の内容より結論。
読書体験はコミュ力の「栄養」である。

栄養が染み渡った畑(人間)が
耕される(コミュニケーション)ことによって
他者を魅了する果実(コミュ力)が生まれる。

結局、そういうことじゃないかと思っている。