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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

現実を視るのか、リアルを視るのか、

コンテンツに触れているとそういうことを考えたりしませんか?

作品そのもの(=現実)を観るのか、
作品が表現したかった世界(=リアル)を視るのか、

僕らはどうするのが正しいのだろうか、と。

この辺りがごちゃごちゃしたまま感想を述べたところで、
他者との共有は難しいのかなーって思ってみたりする。

と、ゆーわけで今一度整理をしたいと思う。

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A.コンテンツを視る

AURAの映画のレビューなどに書かれていたのが、
「低予算だったのだろうか」「尺が短いなかよく頑張った」
という作品とは関係のない「現実の問題」を上げていて違和感があったことを覚えている。


 コンテンツだけを視る人間は、完成された「作品」としての評価を下す。

コンテンツを観る人というのは、総合評価(減点式)で作品を視ることだととらえている。
演技が世界観に入り込むことを妨げるから-1点、ストーリーが飛んでいるから-2点、みたいに
総合評価式の人は減点で作品を見ているような気がしてならない。

実際、台風のノルダがやっていたころ、
「作画はいいけど演技が……ね」とか「ストーリー構成がちょっと……」みたいなレビューが上がっており、
総合評価が低かった印象がある。

台風のノルダ DVD通常版

台風のノルダ DVD通常版

審査員のように作品をみる、というわけ。
それがコンテンツ(作品)として視るというやつ。

B.コンテンツが表現するリアルを視る

コンテンツがリアルを表現するための媒体であるという捉え方。
ありていに言えば、「この作品が表現したかったものを視る」ということ。

リアルを視る人間は、不完全な世界の奥にある「ナニカ」を手にしようとする。

プラスティックメモリーズなんかがいい例だ。
本当はワンダラーを始めとしたターミナルサービスの仕事が「アイラとツカサ」と結びついて
彼と彼女の物語として作り上げられる作品だった、と私は思っている。
ただ私の所感としてはそこがつながっていない、あるいは断ち切られる要素があったために、
作品としてはいまいちな出来栄えになってしまった気がしている。
 
だが、リアルを視ることにこだわってみればいい作品になることは間違いない。
足りない要素を「補い」、断ち切られる要素を「誤魔化す」ことによって、
この作品が表現したかったリアルを見つけ出すことは可能である。

また、リアルへの到達方法は様々であって、
欠けたレンズを埋めるようにする方法や、表現方法(作画やカメラワーク?など)から導き出すということも可能である。










C.

・・・・・・なるほどね。普通の状態なら、素人だろうとプロだろうと、演奏の善し悪しなんざ聴けばわかるもんだ。でも、審査をするとなると、高い点数・低い点数をつける『理由』を探すのに必死になってしまう。
――サヨナラピアノソナタ 3