huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

向こう側の世界へ

 向こう側の世界に向かうのに資格は必要ない。ただ、境界をなくしてしまえばいいんだ。自我と彼岸を超えて、意識をなくして、無意識の向こう側へ飛び込んでいかなくてはいけない。そうでなければ、この世のすべてが現実の讃美歌になってしまう。現実にはないものを持ってくるからこそ文学は尊いのであって、現実を賛美するのであれば幻想も空想もただの自慰だ。現実の向こう側へ。現実の向こう側へ。現実の向こう側へ。「心を込めて祈りなさい。うわの空では何も起こらないよ」祈りの向こう側には何があるんでしょうか。空、海、草原、山。彼方側に肉の身体は持っていけないので、きっと静かなところです。そうです。私たちはこれから天上に向かうのです。何も怖いことなんてありません。それこそが至上の幸福なのですから。
 現実、現実、現実。きっとそこには夢も希望もありはしません。だからこそ、こんなにも多くの人が空想や幻想を求めて旅立っている。知っていますか?現実の人たちは「定時に帰ります」なんて物語を楽しんでいますが、その裏のアニメで「仙狐さん」がやっているわけです。定時に帰ることを至上の幸福とするドラマの裏で、たとえ残業で、会社で苦しめられたとしても、家で「おかえり」といって迎えてくれる他人がいることを幸福とするアニメがやっているのです。いいですか。社会は悪です。あんなものを幸福なんてとらえちゃあいけません。奇跡も魔法もなくていいから、君がいてくればいい。それだけが真実です。空想に恋をしましょう。そうすることできっと我々は救われる。
 救済、救済、救済。何もしていない人間が救われたいだなんて罪深いことなのでしょうか。何もしていないからこそただひたすらに祈ることしかできないのです。それはいいわけでしょうか。いいじゃあないですか。人事を尽くせない人間だっているんです。休日が終わろうとしています。でも、私たちは何も終わらせられませんでした。きっとそれも幸福。救済。救われてしまえば、私たちは弱者ではいられなくなる。弱者でいさえすればどれだけ愚痴をいっても、悪態をついても許される。弱者とは可哀そうな人間だから。そうすることでしか社会と向き合えない人間だっているのよ。そうですとも。だから、許してにゃん。
 許してにゃん、許してにゃん、許してにゃん。だれも許してくれないにゃん。だれも愛してくれないにゃん。僕らは猫になれなかった。幸せなにゃんこにはなれなかったんです。だから空を飛ぶしかないんです。にゃんにゃん。おしまいにゃん
 文、文、文。こうして思いつくままに言葉を吐き出して、吐き出して、吐き出し続けていくことで、私はどこかへ旅立つことができるのでしょうか。この言葉の羅列に意味はあるのでしょうか。わかりません。わかりません。でも、きっと、そうすることでしかどこかにたどり着くことはできないと思うから。吐き出した後はきっと何かを幸福なものを吸い込むことができると信じているから。言葉を連ね、文章を連ねて、その言葉の羅列に意味はなく、そうした行為にだけ意味がある。意味があると思いたい。少しずつ自分が欠けていくのような感覚。何かが失われていくような感覚。でも、それもきっと幸福とはべつのものなんです。でも、幸せなんです。本当に?夢を見るのは楽しいです。空を見るのは楽しいです。海を見るのは楽しいです。夜を見るのは楽しいです。楽しさは幸福とは別ものだから、そこには彼岸があるものだから。
 向こう側、向こう側、向こう側。僕らはどこに行こうとしているんだろうか。夢の果てには死という名の優しい椅子が置いてある。僕らはそれに向かって階段を上っていき、最後にはその椅子に足をかけて、明日に向かって飛び出すんです。向こう側に行きたいのでしょうか。現実が好きなんでしょうか。空想が好きなのは現実が嫌いだから?幻想が好きなのは現実が嫌いだから?でも、どこかに行けるのならばあの世界がいい。ああいう風に死にながら生きていられるあの世界が。ちゃんと生きられない人間でも延々と生きていられるような気がするから。どこだよそれは。
 まなびちゃんの目にはどんな世界が見えているんでしょうか。あのころから僕はどれだけ成長できたんでしょうか。いまだにきらきらわくわくの種は見つかりません。それでも僕らは大人になってまなびラインを越えていく。