読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

ブログにおける肉体・感情・精神について

 

私はどこだ。
私は世界を構築できたか。
私は私を壊すことができたか。
私は……

 

言壺読了後、再考
現在、栽培

 

コンテンツ

◆意識高い系、釣竿露出

◆何のために文章を書くのか―未完―

 

◆意識高い系、釣竿露出


以前私が書いた人たちの空回り具合は肉体的感覚の欠如なのかもしれない。

意識高い系の人達は言葉に飲まれて、自分の肉体から離れ、精神だけが独立してしまっている。

そのため、周りの人間は彼の言葉に心を動かされることは無い。
また、当人もちょっとの衝撃で元の肉体に戻される。精神だけで生きていけるほど強くはないから。

精神だけの話は「虚」である。
肉体的感覚が欠如していては、信用に足る言葉は生み出せない。

釣竿露出の人も似たようなものだ。
「○○だと思います」とか「××しておけばよかった」などというのは「虚」である。
当人から発せられる言葉は「△△で失敗した」「□□というのは間違いだった」ということだけだ。

「虚」を「現実」にしようとするするならば話は別だ。
が、多くの人は「虚」をそのまま「現実」だと認識している。

それではどんな意味も生じ得ない。


◆再現性の低い文章


その文章を書いた瞬間は「これで最低限は満たした」という感覚があるものである。
このまま載せたとしてもある程度の人間には伝わるだろうと思える。
それが昨日の文章だ。

しかし、翌朝になってみると、再現性が低いことに気が付いた。

【文章における再現性】

ああいう風に書いた、意味は解る。
最後のシーンや、この世界の小説から感じたことを書いたのだ、という事が分かる。

【書いた意味は解る。が、その理由が分からない】

理由が全く分からない、といったら嘘になる。
理由を想像することができるが、感じることは難しいのだろう。

【小説と繋がっている現在だから分かる】

小説との繋がりが薄れてしまった頃に、この文章を読んであの時の気持ちが思い出せるだろうか、と不安になる。
そしてそれは、【小説を読んでいない人間には伝わらないだろう】、という不安に繋がる。

その原因はなんであろうか。

【作品との距離が遠い】
【自分との距離が遠い】

書評ブログによくある「あらすじ」というものは小説と私の間に細い線を繋ぐ行為だ。
あるいは、見知らぬ人を小説という門の前に立たせる行為でもある。

一時期の私はそういったものを不必要であると考えていた。
作品に沿って文章を紡ぐのではなく、作品と繋がった先にある世界こそが大事であると感じていた。

つまり、
【「精神」について書くべきである、と考えていた】

その場所で見つけた「言葉」さえあれば、その道中で見つけた言葉も思い出されると思っていたからだ。

【私を震わせた言葉があれば、私はその世界の事を思い出せる】

触れた世界で見つけた言葉ならば、それだけで十分である。
当時のメモ帳を読んでいると、そのことがひしひしと感じられる。
私が私である限り、それでも十分なのだと思う。

しかし、
【他人は私ではない】

ブログというものが「自分の為」であるならば、言葉が【跳んで】いようが、肉体が欠如していようが
ある程度再現することができるので、問題はないだろう。

ただ、その対象が「他人」であったり、「未来の私」を含んでいるのならば問題となるだろう。

【言葉に気持ちは込められない】

私達は、言葉の中に気持ちがあると錯覚している。

当人にとって、言葉とは世界である。
しかし、言葉自体は世界を内包していない。
観測する私達が勝手に世界があると思い込んでいるだけだ。
繋がっていた時間があるからこそ、意味のない言葉に世界を見出してしまう。

【繋がっていない人は言葉以上を必要とする】

ブログを、文章を今以上のモノにしようと考えるならば、変えなければならない。
今のままでは誰の心を打つこともなく、空振りをし続けるだけかもしれない。

【文章に、肉体を、感情を、精神を、籠める】

一つ一つの記事を昇華させる。
読み物として機能するように、肉体も感情も込める。

それらを切り離さずに纏めるにはどうしたら良いのだろうか。

◆何のために文章を書くのか。


当初はどこか、何かに到達するために文章という手法を用いていた。
つまり、ブログに書かれる文章とは「思考の過程」であったわけである。

言葉や物語の機能として私が考えている「繋がる」という言葉で置き換えるなら、
到達すべき場所に繋がるために文章を書いている、ということになる。

もちろん、その最中に言葉は跳ぶし、思考も跳ぶ。
全く関係なさそうな言葉を引用してみたり、そこから別の作品へ跳んだりもする。

私の文章は他人に向けたものではなく、作品と作品を繋げ、1つの言葉を引っぱり出す、ことだった。
それゆえに、私の文章は跳んでいる。

メモ書きに近いのだろうな。
内容はわかるが、意味がわからない、みたいな。

なんにせよ、文章を昇華させるには、「肉体・感情・精神」を混ぜ合わせる必要がある。
文章としての構造を確立させることができれば、よりいい言葉を引き出せるかもわからん。

問題は、その方法だ。
それについては、本書を読了後に考える。