huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

プラスティック・メモリーズ 雑感

プラスチック・メモリーズ 雑感

 

ヒトかモノかそれ以外か

 

 

http://www.plastic-memories.jp/special/newspaper.html

 

生きる時間が異なる僕らは

81920時間。

およそ94ヵ月。

――プラスティックメモリーズ公式サイトより

 

 

機械でありながらも、人間よりも短い命を持った存在。

 

時間が異なる存在との恋愛はこれまでに多く見てきた。

ヒトと妖怪。ロボットとヒト。ヒトと星。

 

そのどれもが、人よりも長い時間を生きる存在であった。

 

けれど、ギフティアは人の生よりも短い。

そして、終わりを告げるのはターミナルサービスだ。

 

そして、そのどれもが社会に逆らう側であった。

 

しかし、彼らはそれを押し付ける側にいる。

異なる時間を強要し、彼らに終わりを決めさせることを許さない。

 

事実を突きつける側の彼らはその事実とどう向き合うのか。

 

思い出を引き裂く存在―ターミナルサービス―

 

忘れないで。おぼえていて。

―プラスティックメモリーズ公式サイトより

 

 

ギフティアと人間が積み重ねてきた10年間を引き裂くのが彼らだ。

大切な思い出を引き裂くのが彼らだ。

どのような感情を抱いていても引き裂くのが彼らだ。

積み上げたすべての思い出を消すのが彼らだ。

彼らが報われることはない。

 

今回、彼女に残された時間は「2000時間」とされた。

引き離される時は刻々と近づいてきている。

 

引き裂く存在が、引き裂くことをどう位置付けるのか。

引き裂かれる当事者になったその時に彼はどう思うのか。

 

人格も記憶も壊れてしまう前に「死」を迎えさせるのは良い事なのだろうか。

綺麗な姿のままで、別れを迎えられることは素敵なことなのか。

童貞処女のまま心中することは美しい事なのか。

 

美しいと思うのはいつも外側だ。

壊れてしまう前に、美しいままで、綺麗な別れを。

 

それでもギフティアは別れを受け入れる。

美しいまま、壊れる前に、引き裂かれることを受け入れる。

 

考えようによっては、「私」を「私のまま」殺してあげられるのがターミナルサービスなのかもしれない。

 

引き裂かれるその時、彼は、彼女はどうするのだろうか。

 

人の穴を埋めるロボット

人間の代替品としてのロボットがこの世界では普通であるらしい。

第一話では「孫」の代替品として、第二話では「息子」の代替品として。

 

ギフティアはギフティアとして認知されるのではなく、人として認知されている。

案外簡単に手放してしまう人もいる辺り、そうではないのかもしれないが。

 

どちらにしても、この作品では「ロボットヒト」の構図が成り立っている。

ロボットにとって不必要である「排泄行為」や「体温」などがそれを示している。

 

OPで彼女の吐息が白かった。

一話の最後に「排泄行為」が必要である様が見て取れた。

 

人を超えた存在としてのロボットならば「BEATLESS」で観た。

人と共に歩く存在としてのロボットならば「イヴの時間」で観た。

 

 

ロボットとヒトの距離感をどう描くのだろうか。

 

ギフティアと人の心

ギフティアの心は人間のソレとは異なっているらしい。

 

「ヒトが死を怖がるのは死にたくないからじゃない。増えなくてはいけないから、その前に死ぬことを怖がるんだ」

――月の珊瑚

 

 

彼ら・彼女らは「死」を恐れていただろうか。

ギフティアからすれば、主人公は死神に近しい存在だ。

自身と周囲の人間を切り離すだけではなく、個人の意識を終了させる存在だ。

にもかかわらず、それから逃げることなく、「死」を受け入れる。

 

私にはそれが理解できない。

自分という存在を消してしまうことに納得できてしまう彼らのことが分からない。

どうして「死」を受け入れられるのか。

 

本来、人間は「繋ぐ」存在だ、と私は考えている。

文章を紡ぐのも、物語を聞かせるのも、言葉を発するのも、文字を書くのも、全ては繋ぐためだ。

遺伝子として「繋ぐ」だけではなく、「意識」も繋ぐ。

だからこそ、何者にも過ぎない一個人が文章を書くのだ。

 

彼らは「意識」しか繋ぐことはできない。

確かな「繋がり」を感じることなく生涯を終える事となる。

家族だった、技術を教えてくれた、そんな曖昧な関係性のまま終わることを受け入れる。

 

私にはそれが理解できない。

 

「回収」の時に問題となるのはいつだって「ヒト」だ。

ロボットである彼らは「引き離されること」を受け入れている。

 

私にはそれが理解できない。

 

そう、プログラムされているのだ、と分かればいい。

けれど、そうではないのだと思っている。

彼らの「心」の在り方は「人間」とは異なっているのだろう。

 

彼らを「ヒト」ではなく「ギフティア」として見ない限り、主人公の仕事はなくならない。

 

彼らは「ヒト」ではなく「モーター」でもなく、「ギフティア」なのだ。

 

ヒトとロボットの距離をこの作品はどう描くのだろう。

 

無駄な努力

第二話にて、彼女は成長できない存在だと規定された。

 

以前、TVに松岡正剛氏が出ていた時に「ロボットはピアトゥピア」だと話されていた。

問題解決に必要なルートは一つだけであり、横道に逸れたり、道草を食うことはロボットにはできない、と。

 

「効率」という話ではなく「仕組み」の話だ。

 

ファイルを検索するときを思い浮かべてみればいい。

人間はフォルダから遡りながら欲しいモノを見つけ出す。その過程で他のファイルを観る事もあるだろう。

しかし、ロボットは検索により直接そのファイルへ到達する。横道に逸れることなく一つのファイルに行きつく。

 

それだからこそ、「無駄な努力」が理解できない。

壁に当たっても動き続けるポンコツではなく、壁に当たっていると知っていながら行動し続けるロボット。

上手くいかないことを自覚していながら、同じ行動を取り続けられるなんて「人間」のようではないか。

 

彼女は「死」を受け入れるのだろうか。

どうも彼女は「ヒト」に近すぎる気がしてならない。

 

 

終わりに

 

「モノ」として描かれるのか「モノを超えた存在」として描かれるのか、あるいは「ヒト」として描かれるのか。

 

違う存在だと認識したうえで、彼と彼女はどうするのだろうか。

「彼女」を「彼女のまま」終わらせるのか。

あるいは、無かったことにして忘れてしまうのか。

 

彼は、彼女は、どうするのだろうか。