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huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

集中力の減退/より深く深く/感情栓

今の若い人類はすべての物事を並列処理する。
音楽を聴きながら勉強をするとか、
テレビを観ながらスマホをいじるとか。
攻略サイトを見ながらゲームをするとか。
そんな風に、今の若い人類は息をするように
『並列処理』を行っている。

その理由についてあーだこーだと話すつもりはない。
何故なら、そんなことをしても「だから何」という話だからだ。
育て方が悪かったとしても、社会が悪かったとしても、
私が悪かったとしても、「そうなっている」という事実からは逃れられない。

【僕らは並列に物事を処理している】

並列思考(マルチタスク)なんていう厨二病ご用達のソレとは違っていて、

【一つの物事に集中できなくなっている】

ただ、それだけのことだ。
テレビを観続けることができなくなり、
ゲームに取り組み続けることができなくなり、
音楽だけを聴くことができなくなった。

これの問題は、【深く愛せない】というところにある。
すべての物事に対して【浅い】人間となってしまうということだ。

「浅い」ということは、対人関係上は問題にならない。
むしろ「浅い」方が他者への伝達は容易になるだろう。

・ABがオリコンに上がってたよー
玉縄さんみたいにロクロを回したい。
・やめるめう

「浅い」ということは、
『誰でもわかる客観的な内容』であるということだ。
それは、感情というよりは事実に近い。

つまり、浅い愛し方とは、
【コンテンツから集められる事実だけを攫う】ということだ。
それを問題視するのは、他の誰でもなく、自分自身だ。

浅いとつまらないもの。

深く愛する方法

何を持って「深い」とするのかは個人による。
「深さ」を求める人間に終わりはないが、掘るためのシャベルを考えることはできる。

⓪「深さ」は個人のために
①感性を鍛える

共感覚という言葉が漫画で使われるようになったのはいつだろうか。
漫画では、音楽の視覚化として描かれている。

SOUL CATCHER(S)とか、弁天ロックゆうとか、で使われている。
共感覚ではないが、音の視覚化という表現手法は四月は君の嘘でも使われている。

【音楽に乗せられた(秘められた?籠められた?)イメージを感じ取る】

彼女は公生の演奏に桜の風景を見たが、凡人達はその輪郭に触れただけであった。
感性が研ぎ澄まされた先では、『音』ではないナニカに触れ、没入することができる。


そういう風景に出会うためには、感性を鍛える必要があるだろう。
「異能」に近しい感性を獲得することは難しくとも、それに近づくことはできるはずだ。


では、感性を鍛えるために何が必要なのだろうか。

経験上、「言葉」に頼るのは問題だと感じている。
言葉は表現をする際に必要となるが、「感じる」フェーズではさして必要ではない。
感性が弱い人ほど、「言葉」を紡ごうとすればするほど、「事実」に傾倒していく。
そうして、曖昧ながらも「感じた」ことが手のひらから零れ落ちていってしまう。


だから、まずはひたすら「触れる/没入する」ことが大切である。
そうしているといつか、なんとなく「これだ」っていう感覚に浸ることがある。
その感覚をなんとなくでも覚えておけば、いつか世界に没入できるようになる。

②脳を鍛える

感性以前の問題として、感覚の受容器が壊れていればなにものにも触れることはできない。
脳を受容器として考えた際に、それ自体を鍛える必要がありそうだということだ。

鍛える必要がありそうなのは、「同時認識力(並列処理)」とか「再現力(イメージ力)」とかだろうか。
言い換えると、広い視野を持てることと、再現することの二つだ、と思っている。

音楽が一番わかりやすいだろうか。
ボーカルしか聴こえないよりは、楽器の音も合わせた「輪」として聴こえたほうがいい。
音楽でわくわくするだけでなく、その感覚に浸れるほうが楽しい。

コンテンツでも同じことが言えるだろう。
何か一点しか楽しめないよりは、複数の点を合わせて見れたほうが楽しい。
声優だけでなく、キャラクターだけでなく、ストーリーを、世界を楽しめたほうがいいだろう。

だから、受容器として脳を鍛えるのは一つの有効な手段であると思う。
(実際に突き詰めていくと神経とかになるのか?)
具体的なことはググったら出てくるのでそれをご参照ください。
ただ、傾倒すると頭にアルミホイルをまくことになるのでお気をつけて。

③素直になる/余裕を持つ

感情をせき止めるダムが存在している限り、感性は発露しない。
また、感情の流れを曲げてしまうものがあっても、感性は伸びてこない。

簡単に言うと「感情に栓がされている」状態だとダメなんだ。
私が言っている「栓」は、個人が持っている「色眼鏡」とは別だよ?
謎解きが好きな人が「謎解き」に傾倒するのは、一つの個性だ。
曖昧な人間が比企谷に傾倒するのも一つの個性だ。
面倒な人がロミオにハマるのもひとつの個性だ。

「色眼鏡」は「個性」になり得るが、
「感情栓」は「個性」を殺し得る。

「感情」を殺し、捻じ曲げる「栓」とは「技術/知識」である。

ブログを見ているとそれがよくわかる。
最初のうちは感情のままに書いていたにも関わらず、
いつの間にか、自分の得意な書き方で、書けることだけを書いてしまっている。

「技術/知識」というもので、感情を選別し、捻じ曲げてしまうんだな。


楽な方向に流れるのが人間というもの。
自分自身が堕ちているとは気が付かない。
適宜修正していくしかないというのがアレだが、結構大事なこと。

鑑賞の到達点

共感覚の果てにあるまどろみこそが鑑賞の到達点なのだろうか。