ぼっちに必要なもの
ぼっちがぼっちとして生きていく術を私は知らない。
私自身もぼっちであるが、それを究めた先にある幸福はまだ見えてこない。
とゆーか、「ぼっち」としての幸福なんてものより「普通」の幸福の方が良い。
大勢が獲得している幸福ならば、少数派のぼっちよりはその手法が溢れ返っているだろう。
■知識
ぼっちが傾倒するのは「知識」である。
私自身もそうであったし、多分他の人もそうなのだと思う。
「ぼっち」を強く意識させられる学生時代において「学力」というものは
個人の「大丈夫」を形成する基盤となってくれる。
「学力」は他者への優越感を醸成する。
そして、「知識」は自分を一段階上のステージへ連れて行ってくれる。
そしてなにより、「学力」は「将来」というものを感じさせてくれる。
つまり、ぼっちが「知識」に傾倒するのは「未来への希望」のためである。
知識により引き上げられた意識は、他者との距離を生み、存在として切り離す。
学力に現状を変えるほどの力は期待できないが、将来に影響を与える事はできる。
ぼっちは「知」を利用することで「場」をつくり、「未来」をつくろうとするわけである。
だが、他者を頼れないぼっちは集団の「知」に呑まれ、落ちぶれる。
■集団の知識
【独りではできないこと、仲間とならできること】
ぼっちには「他者を頼る」という選択肢が存在していない。
ぼっち故に、「ノートを借りる」「過去問を得る」「質問をする」といったことができない。
ゆえにぼっちは、全て出来事を「個人」で完結させなければならない。
ただ、「個人」には限界がある。
人の一生が有限であるように、個人が達成できる可能性もまた有限である。
だが、他者を組み込むことで選択肢は数倍に脹らみあがる。
単純な話である。
10人が協力して10時間で終わる課題があるとする。
1人ならば単純計算で100時間掛かることとなる。
色々な諸要素(練度、規模、課題とか)を考慮すると数字に違いは生まれるだろう。
だが、世の中の出来事の多くは複数人で行うことを前提にしている。
その時点でぼっちは不利な状況に追い込まれている。
ゆえにぼっちはある「武器」を手にする。
それは「効率化」だ。
■ぼっちの時間活用術
ぼっちの最大の武器は「妥協による効率化」である。
集団の場合、集団が求める水準までの努力が必要であるが、
ぼっちは自分の基準で以って始まりと終わりを決める事が出来る。
必要最小限の努力で済むように「妥協」し、「効率化」する。
テストは赤点を取らない様に立ち回り、課題も必要な分だけ提出をする。
「妥協」を繰り返しながら「問題発生」の分水嶺を見極め、
「リスク回避」に特化した生き方を手に入れる。
その領域に到達したぼっちは、
すべてのリスクを回避し、問題を発生させない。
そうして、現在における「無敵な私」獲得する結果になる。
現在における「最適化」は未来を含めた「最適化」ではないにも関わらず
ぼっちは現在を「最適化」し続ける。
■未来から現在へ
余裕があるぼっちは「未来」を夢想する。
余裕がないぼっちは「現在」に追われる。
いつの間にか、未来ではなく現在が主題になっている。
これはすっごく面白い。
未来を見据えられなくなったぼっちは「現在」から抜け出せなくなる。
未来の為にリスクを取ることはできない。
未来の為ではなく現在の為に行動する。
現在を生きるために行動する。
未来が現在に殺される。
いつしかぼっちは「未来」に弱くなる。
■現在から未来へ
最適化は現在の為であり、未来を指向したものではない。
それゆえに、ぼっちは未来を指向することに弱い。
以前も書いたが、「選択」とは「リスクを背負う」ことである。
選ぶということはそれ以外を選ばないということ、と言えば分りやすいだろうか。
選択により、それ以外の選択肢を喪失するというリスクを背負うことになる。
リスク回避に特化してしまったぼっちは、そのリスクすらも回避する。
未来において誰もが求めるであろう「知識」や「能力」を獲得することで、現在を最適化する。
普遍的な能力に手を出すことで、すべての選択肢を残したまま問題を解消できる。
つまり、ぼっちは未来に怯えて現在を生きているわけである。
では、未来と向き合うためには何が必要なのか。
◆対話の必要性
ぼっちに必要なのは「知識」でも「能力」でもなく「対話」である。
どこぞのぼっちは、ぼっちでありながら「対話能力」に長けている。
主人公という何かを為す役割を担っているゆえに「対話能力」が必要なのだろうな。
「個」として生きるためには「対話」する必要がある。
他人を自分と関連付け、自分との繋がりの中で「対話」を行う。
「他者」と「自分」を繋げて「意思」をやりとりする。
それができれば、生きていく可能性を高める事ができるようになる。
「意思」をやりとりできないというのは、社会で生きていくことを困難にする。
誰とも「意思」を交えなければ、自分の「意思」を自覚することも、表現することもないまま、終えることになる。
「意思」を表現すれば、確固とした自分が形成されていく。
「意思」を受信すれば、他者を他者として認識できるようになる。
その過程を通じて、人間が形成される。
伝え、受け取るというのが大切なのだと思っています。
「対話能力」
それこそが、ぼっちの救いになるのではないかと思う。
◆終わりに―私は対話を望む―
【「雑談」ではなく「対話」である。】
【肯定し、否定する、そして問い直す。それが「対話」】
単純に、「対話」がしたいな、と思いこの文章を書きあげた。
その理由というのは前述したとおりで、「意思」を誰かに届け、届けられることによって、
なにか得られるものがあるのではないか、と思っているからだ。
だが、直接誰かと話すほどぼっちをやめてはいない。
ゆえに、私が思い描くのは「チャット」である。
それも、長文を許容するパソコンによるチャットだ。
メールでは遠すぎで、LINEでは近すぎる。
距離を保ちながら「意思」を交し合えるのは「チャット」が理想的だろう。
いつか、繋がりを持てたならばやってみたいものだ。