huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

社畜の時間活用術

社会の畜生(以下、社畜)として生きている人間というものは面白いもので、
仕事から逃れることのできる「休日」を手にしても「何もしない」ことが少なくないという。

社会で活躍しているであろう「社会人」なる人たちからすれば、
「どうしてせっかくの休日を友達と遊んだりしないのだ」
「どうして休日だというのに自分を高めようとしないのだ」
などと、社畜のことを阿呆か何かとしか見ていないのではないだろうか?

だが、彼らの言っていることはおおむね正しい。
荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といっていたように、
彼らは「自分の人生の有限性」を感じ取っているのだ。
自分の人生が有限であるとわかっているからこそ、
休日を謳歌し、自己を高めようなどと思うのである。

では、なぜそれが社畜にはできないのか。
金曜日で仕事に殺され、復活するには一回休みを経由しなくてはならないから。
とか、そういう体力・精神的に回復するために時間が必要であるというのも一つである。

しかし、私は「何もしない」のは社畜なりの時間活用術でもあると考えている。
社畜たちは社会人よりも「時間の可変性」を感じ取っているのである。

荒野を目指すアニメの少女もこんなふうに言っていた。
「ゲームだと時間が飛ぶだけだけど、ごろんごしてると心が癒される。」

楽しい時間はすぐに終わり、嫌な時間は永遠に終わらない。
自分の状態によって時間の幅というものは伸び縮みしている。

つまり、社畜たちは大切な休日を一秒でも長く感じるために、
「何もしない」という選択をとっているのである。
そうすることで、休日の終わりを先延ばしにしているのである。

休日に何もしないのは、社畜なりの時間活用術なのである。


補足①

「何もしない」という選択は、その日の時間を長く感じさせてくれる。
だが、その時間から遠く離れてしまったときには一秒以下の価値しか持たない。

何故なら、「何もしない」=「その時間の想い出を作らない」ということであるから。

振り返ったときに時間を感じるための「しるし」が何もしなかった時間には存在していない。
例えば、学生時代に「何もしなかった」場合は、社会人になってから振り返っても
「入学」から「卒業」までの間にブランクが生じることとなる。

何もしないという行動は「精神を守る」うえでは大いに役立つものであるが、
その多用は控えたほうが好ましいのではないかと思っている。

補足②

荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といった。
それに対して私は「どれだけの人間が本当にそう思っているだろうか」と感じている。
逆に、「1日が長すぎるから人は懸命に生きないのだ」などと思う人もいるはずだ。

そういう時間の有限性から「全能感の喪失」や「自身の限界」を感じることは少なくない。
だが、それを感じない人間というものも存在しており、ロミオの「ユーザー罵倒」にも書かれていた。
だがあの本を持っている人間も多くはないだろうから、この本をおすすめする。
山月記」である。

・己の場合、この存在な羞恥心が猛獣だったのだ。
・人生は何事かを為さぬには余りにも長いが、何事かを為すには余りに短い

「事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」
「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。」

幸いにも人間の形を保っているのならば、内に秘めた猛獣を飼い馴らすべきなのだろうな。

参考資料

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

李陵・山月記 (新潮文庫)

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現実脱出論 (講談社現代新書)

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