huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

友達について

 


女を羨む時がある。

それは、友人という間柄について考える時だ。

 


男性同士の友人は度が過ぎれば気持ち悪いが、女性同士の友人は度が過ぎても気持ちが悪くない。そんな気がしているのである。

 


女性同士がいちゃいちゃではなく、仲良くしている作品は2次元上には氾濫している。それの何がうらやましいかというと、ただ一人の友人がいればそれで救われるのではないか、という視点である。男同士がただ一人の友人と遊んだりしているとそれはいつかのホモとなる・・・なぜ、社会はそうして男性は女性と、女性は男性と、といったように、すぐに恋愛感情へと昇華させようとするのであろうか。

 


一定のジャンルとして確立しつつあるTS(トランスセクシャル)とはこれは似たような部分がある。あくまで一部であり、全部ではない。

 


TSの病は大きく3つに分類される。

①イヤな顔されながらおパンツをみせて欲しいの高度を上げたもの。=それはつまり征服欲。

②ただ単に犯されたい。それはつまり被虐心

③愛されたい・愛したいという欲望=それはつまり愛欲

 


①~②は単なる性欲の類いの話であるので問題は無い?のであるが、③は愛したい・愛されたいという欲望である。裏を返せば、今の自分では誰も愛すことはできないし、愛されることもあり得ない、という思想から生まれているのである。

 


③とはつまり、自己の否定なのである。

言ってしまえば、「異世界転生もの」と同じような物なのだ。

異世界転生が「××しただけだが?」という自分の常識と異世界の常識のギャップでマウントを取る野に対し、TS物は「あっ、そっか・・・今の俺は美少女だったのか・・・」という男性の意識がもたらす無知シチュエーションが男性を虜にする様でマウントを取っていく。その果てで、メチャクチャに愛されたり、かわいそうな男子を愛してみたりするのである。他人を自身の行動でコントロールしてみたりする果てで、相手に自分をコントロールされてみたりする・・・・・・みたいなことをしたいというわけだ。

 


有り体に言ってしまえば、「他人に影響を与えたい」というものと同じなのだろう。今の自分が積みセーブだからリセットしたいという訳だ。氾濫するなろう小説はそうした閉塞感に対する処方箋?・・・ではないな。えーと、痛み止めみたいなもので、人によってその種類がTSだったり異世界だったりなんだったりする訳なのである。

 


話がそれたので、元に戻す。

 


男性と男性が仲良くすれば薔薇が咲き、

女性と女性が仲良くすれば百合が咲く。

 


そのことについては否定するつもりはないが、別段男性と男性を特別視する必要も女性と女性を特別視する必要もないのだと思っていて、ただ単に、好きになった人がその人だった、で良いのではないかと思う。男性だから好きになった訳でも女性だから好きになった訳でも無いはずだから。

 


多分、それが私の違和感だ。

男性と女性がお酒を飲めばセックスに至る。

それが社会通念というものらしく、それに私という人間も囚われてしまっているらしい。

他人との関わり合い、特に女性との関わり合いに対して消極的なのはそれが原因なのだろう。男性と女性の遊びにはどうしても「意味」がつきすぎてしまう。だから、イヤなのだ。思い返せば、学生の時もそれが嫌いで孤立した記憶がある。

 


中学生の頃はよく友人として女性とも話していた記憶があるが、ある日を境に「××くんって○○ちゃんのこと好きなのー?」となったことがあった。そこから女性と話すことはなくなり、大学生の時もゼミナールで似たようなことが発生し女性と話すことがイヤになったのだ。社会人になると自分よりも年上と話す機会の方が多くなり・・・・・・その話はまた今度にしよう。

 


で、だ。

何が言いたかったのかというと。

どれだけ仲良くしても許される間柄が、

ホモやレズの概念によって駆逐されつつある。

もちろんそれは社会の眼を気にしなければ良いという話なのであるが、それほど私は強くない。

ただ単に、一人の友達が欲しかっただけなのだ。

それが仲良くしていく内に恋愛感情が発生する、あるいは恋愛感情として取り上げられるのが苦痛で仕方が無かったのだ。

 


恋愛関係の介在しない、発生のしない空間。

それが私のTRUE ENDのような気がする。

 


もしかすると、そういう風に一緒に行動したい相手のことを恋人というのかもしれないが。