huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

物を語るということ

―――
忘れるな、これが物を語るということだ。
―――

作品について語るとき、我々は作品の一部を殺しているのだ。

――なんて物騒な。


これはずっと、ずーっと昔から言っていることだけれど、
私が作品を語るとき、作品は私の型に切り取られる、のである。
つまり、私の判断で語られなかった(私が気が付けなかった)作品の一部は
私の中に残されることなく、この世界から消え去ってしまう。
これってとっても危険なこと。

プラスティックメモリーズなんかが顕著であっただろうか。
あの作品には切り取りやすいいくつかの型が存在していて、
SF的視点とか、アイラとツカサの物語とか、ターミナルサービスとか、その他もろもろ。

多くの人が自分の型の中から、他人が視た物語を否定し合っていた。
「アイラたんペロペロ」「アイラはヒトなの?モノなの?」
「その機能はどこで使うの?」「極大ビームワロタ」などなど。
(それ以前にあの作品は「アイラとツカサ」に周囲が奉仕するという状況があり、
彼ら彼女らの外側の出来事がただただ消費されるだけという不気味ささえあった)

確かにあの作品は一つの視点から切り落とすと矛盾をはらんだ作品だったのかもしれない。
ただ、ここまでの否定が続いてしまったのも多くの人が当初のプラスティックメモリーズに何かを感じていたからだ、と今は思う。
その何かは、アイラが朗読(?)をしている特設ページを開けばわかるはずだ。
あるいはOPかEDか、第一話か。

あの時に感じていた「言語化できないナニカ」がこの作品の核だったのである。
それが、作中の諸々のキーワードによって視聴者の心から切り離された。
プラスティックメモリーズ=ワンダラー(笑)」となった人は、そのナニカを思い出すことすらないんだ。

だから、安易に作品について語るべきではない。
中途半端な語りは作品を損なうだけの行為になってしまうから。

そしてもう一つ作品を語るうえで気を付けるべきことがある。
それは、作品の唯一性を喪失させる「文脈」だ。

文脈の内に組み込むということ【唯一性の喪失】

作品と作品を結び付け、一つの文脈とする行為がネット上ではよく行われている。
かくいう私もよくやっており、「アニマスとシンデマス」「BEATLESSとプラメモ」みたいに、
物語そのものとはなんら関係性を持たない物語を並列に扱ってみたりする。
あるいはツンデレという文脈にキャラクターを組み込んでみたりとか。

そういう行為が目指す場所は「物語」の外側にある。
つまるところ、「私の都合」というやつだ。
自分がとらえた世界をより強固にするため、あるいは昇華させるために多くの物語と物語を
結び付けたり戦わせたりしてみるわけである。

体系的に何かを捉えることに到達できる場所は確かにある。
ただその行為自体は物語から「唯一性」を喪失させる。

ルイズも伊織も大河も「ツンデレ」や「釘宮」の一部でしかなくなる。
佐藤も佐藤も佐藤も「拗らせた人間」の一部でしかなくなる。
さすおにもBクラスも「WEB小説」の一部でしかなくなる。

結局のところ、どこで語るのかという話なのである。
物語という視点で語ってしまえば、キャラクターは物語の文脈に組み込まれる。
ジャンルという視点で語ってしまえば、物語はジャンルの文脈に組み込まれる。

語られるべきは「どこを唯一の出来事として捉えたか」であり、
語りやすい場所を語ればいいというわけではないことを忘れてはいけない。

ある人は「釘宮理恵」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は「水瀬伊織」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は「彼女の物語」から唯一の出来事を感じ取った。
ある人は……

言葉は認識を超える。

―言葉は他人の言葉を利用して新たな物語を紡ぎだす。

これまでは物を語ることの不完全性について話してきたつもりである。

出来事を言葉にするために出来事を加工する必要があるため、出来事から「ナニカ」が損なわれる。
つまりそれは私が体験した「唯一の物語」を他者に同様に感じさせることは不可能であるということでもある。
私が他人になれないように、他人も私になれないのだから「同一の物語」を共有することは難しい。

ねぇ、まなびちゃん。
私ねずっと知りたかったんだ。
まなびちゃんにはこの世界がどんなふうにみえているのかなって
まなびちゃんはいつだって退屈な毎日の中にきらきらわくわくの種をみつけちゃう。
まなびちゃんの目はきっと私とは違う世界をみているんじゃないかなって。
まなびちゃんにはどんな世界が見えてるのかなって。
でもね、でもねまなびちゃん。
いまなら見えるよ。
私にも見える

ただ、彼女の「唯一の物語」を「私の唯一の物語」にすることはできる。
今日はここまで。

念のための補足ですが、
我々が物語に対して必ずしも主体的に選択できるわけではないですよ?
物語もそれ自体が出来事であり、体験であるのでその時々の個人と混じり合って「唯一の物語」を醸成する場合がほとんどです。

物語から何かを選択できる状況は
物語の軸からは外れていますので。

メモ


NTRに何を求めているのか

―――
①「言葉」は「物語」によって定義される。
②「言葉」は「個人の願望」を映し出す。
―――

言葉というものは不思議なもので、
コンテンツが蓄積されるにつれてその意味や目的が曖昧になり、
その言葉が意味しているものが人によって異なるという状態を引き起こす。

それは個人が触れた「物語」が個人と絡みつくことによって言葉が定義されるからである。
※忍者と聞いて「NARUTO」を思い浮かべるのか「忍空」を思い浮かべるのか
 はたまた「ニンジャスレイヤー」を思い浮かべるのかという話ではない。


よくある例を出すならば「どこまでがSFであるのか?」というやつだ。
宙のメソッドはSFであるのか、ガンダムはSFであるのか、プラメモはSFであるのか、などなど
特にアニメをSFに組み込んでしまうのかどうかは議論が大きく分かれるところである。

「視点が変われば世界が変わる」という話もあるように、
SFの視点から見た物語とファンタジーの視点から見た物語が異なった見え方をするように、
自分がどの立場から見ているのか(≒見てしまっているのか)を知ることで
違う視点への気づきや視点のドリルダウンを行うことが容易になる。
(あるいは不確かなものを確かにしたいという欲求か)

そういった言葉の定義付けには「その言葉に個人が求めるもの」が如実に現れる。

例えば、「SFとは現実に一つの嘘を付け加えた物語である」と仮定しよう。
プラメモならば「ギフティアという嘘」
雪風ならば「ジャムという嘘」
BEATLESSならば「人類未踏物質という嘘」
そういった「一つの嘘が世界に与える影響を観測したい」という欲求が現れる。

例えば、「SFとは問いである」と仮定したならば、
例えば、「SFとは超科学である」と仮定したならば、
例えば、「SFとは・・・・・・

そんな風に、言葉には個人がその言葉に求めるものが如実に反映されるのである。
そして求めるものとはその言葉に関する原風景を形作った「物語」によって規定される。



そういうわけで、言葉一つを取ってみても意味が異なるわけです。

NTRの整理

はてなキーワードより

ストーリー属性の一つ「寝取られ」の隠語。
意中のヒロインが他の男とやることを言うが、これにマゾヒスティックな快感を覚える人もいる。
主人公とヒロインと他の男の関係によって様々なバリエーションがある。
素人にはオススメできない。

以下本題。
少し前ぐらいからNTRというジャンルが流行りつつあり、今一度整理を試みる。
※今回は男性―女性―男性の関係性に限ります。
※今回はNTR(寝取らせ)は除きます。
※男性視点からの楽しみ方に限ります。

NTRに必要な役者は以下の3名である。
つまり、三者三様の楽しみが存在しているというわけである。
①女性(②と交際中)
②男性(①と交際中)
③寝取り役の男性
―――
<補足>
女性の立場に感情移入をして楽しむ、とは。
ケンプファーのナツル君に感情移入をして楽しんでいた人がマッチするかもしれない。

女性の立場に感情移入をすると一言にいっても、
「女性である自分」というものに興奮を覚えているものから
「女性として嬲られる自分」というものに興奮を覚えているものまで幅広く存在している。
―――

この三者からどのように感情移入をして楽しんでいるのかをベースに話を展開していく方法も考えたが、
今回は「NTRに求めるもの」をベースにして考えを展開していく。

NTRとなると以下の2パターンがあると考えられる。
A.NTRされてしまう状況に興奮をしている。
B.NTRを受け入れてしまう状況に興奮をしている。


A.NTRされてしまう状況に興奮をしている。
「快楽にのまれる」「男性にいいように使われてしまっている」などといったような
「ばかになりゅう」という状況に興奮をしているというわけである。

キーワードは「快楽の奴隷」である。
女性への感情移入としては、快楽の奴隷として扱われる自分への興奮が、
寝取り役への感情移入としては、快楽の奴隷へ貶めたことへの興奮が得られるだろう。

別段NTR固執する理由はこの層には存在していない。
NTRはそういう需要も満たしている。

B.NTRを受け入れてしまう状況に興奮をしている。
キーワードは「自分の意志」である。

寝取り役への感情移入は単純明快である。
相手に背徳的な行為を自分の意志で選択させることに興奮を覚えるのである。
代表的な例は、相手に不義不徳を「自分の意志で」働かせることへの興奮だ。
「流されて~」という状況を好まないあたり、「支配欲求」が強く見受けられる。
※「聖女さえも堕落する」といったような高潔なものを自らの手で貶めることと類似しており、
 針の振れ幅が大きければ大きいほどその興奮も高くなる。


寝取られ役の男性への感情移入は複雑である。
彼自身は何かを選択することは一切なく、ただ最愛の人を奪われるだけである。
そうした中で感じるものは「喪失感」にほかならない。
つまり、『識』を失った『式』に感情移入をして興奮するタイプの人間です。
※あるいは、トルネコ(いわゆるローグ系)で丹念に鍛え上げた武具の喪失。
※「ほろびゆくものこそうつくしい」とは別物です。

喪失がもたらす「空虚」の一言では言い表せない感情に魅入られた人が楽しめそうです。
あるいは、寝取られ役の男性の不幸に興奮する、
「他人の不幸は蜜の味」を地で行くタイプの人でしょうか?


寝取られる女性への感情移入もまた、少し複雑である。
不義不徳を働いてしまうことへの罪悪感や背徳感に浸るといったことは容易に想像できる。
他者を含め積み重ねてきたすべてを自分の意志で台無しにしてしまう行為への背徳感はいかほどのものであろうか。
それに加え、抑圧からの解放もまた同時に描かれる。
つまり、作中に描かれた彼との信頼や自身の欲求、自身の未来などからの「解放」がこのパターンからは得られるのである。
※「もーどうにでもなれ」というやつで、一種の破滅願望のようなもの。

NTRとは

要約すると「堕とす楽しみ」と「喪失/解放する楽しみ」の二つになる。
前者は「他者を自分よりも下に落とす行為」あるいは「他者を落とし自分を相対的に上げる行為」
後者は「自分を下に落とす行為」である。

大抵の場合は前者を描くことが多く、
後者はあくまでも前者のためのスパイス程度の役割でしか登場しない。
つまり、NTR(寝取られる)というよりもNTR(寝取る≒寝取られた女性)を求めるものが大半だということだ。


本当に誰かを喪失することに興奮を覚える変態大人は少数というわけ。
NTRを知った男性がズルズルと堕ちていくさまを求める声は少数というわけ。
多分。

何かあれば更新することにします。

メモ






生存報告と思考の整理

久しぶりにブログを書こうとすると、
なかなかに文章をまとめられないものだと感じる。
というわけでつらつらと文章を書きつける。

ツイッター+αぐらいの認識でいてくれるとうれしい。

実に最低な文章だ。

拗らせ男子の永久迷路

インターネットに身をやつしている人間というものは、
何かしら「拗らせて」しまっている人が多いものである。

それは例えば「人間関係」であったり
それは例えば「青春」であったり
それは例えば「趣味」であったり

それは例えば……と挙げていけば際限がない。
人それぞれ拗らせてしまっている対象は様々であるが、
彼らに共通しているのは「同じ結論に行きつく」ことである。

彼らはただ、答えのない迷路をさまようだけだ。
その迷路に閉じ込められてしまうのは、「他者の不在」が原因だ。

自分一人じゃその「歪み」に気が付けないんだ。
(彼も多分そのことには気が付いているはず、なんだけれど
 いや、私がそうだと思い込んでしまっているのだろうか)

救いの手なんて優しいものである必要はなくて、
世界の壁をハンマーでぶっ壊した由乃のように、
容赦なくその迷路を壊してあげてほしい。

彼もその迷路の先には何もないとわかっているのだ。
そう思うことができないところまできてしまっているのか、
そういう「空想」に縋るしかないところまできてしまっているだけ。

彼が勝手に感じる「他人」なんかじゃなくて、
明確に彼と敵対し、彼を解体する「悪役」が必要なんだ。
そんなやつがいたら私にくれ。

コンテンツの「正しさ」について

(極論だが)この世の中に確かな事実があるとすれば、
それは『あなたとわたしは違うのだ』ということだけだ。

この事実自体は多くの小説や他人によって語られていること。
(もちろんゲームでも語られていることである)

そして我々が正しさを共有できているのは、
『社会』という共通の幻想があるからである、
というのも言壺や現実脱出論で語られていることである。

つまり、「正しさ」について議論をするときには
その立場を明確にしなくてはならないわけである。
(ただ、「正しさ」を主張する時は、
 社会的に「お前が間違っている」か、
 私的に「お前が間違っている」か、
 どちらかを伝える時だけだ)

で、そんなことは誰しもわかっていることなのだが、
感性の果てにある「真実」は共有のものだと信じたがるらしい。
あるいは「彼」や「彼女」が感じたのだから「私も触れられる」と思いたいのか。

「等身大の私が触れたものがそのコンテンツの全て」とは知りつつも、
私が触れられる世界を広げたいと思うのが人というものである。

ただまぁ、面倒なことにコンテンツというやつは「読解力」と「感性」が必要なのである。

「読解力」というやつはなんとなく身に着けやすい、と認識されている。
読解力とは「道筋を見つけ出す力」であり、時間と労力と経験値でそれを補える。
だからブログではそれがよく見受けられる。

例えば、「あのシーンのリンゴは彼女を表している」とか。
例えば、「だれもめぐねぇと会話をしていなかった」とか。

言ってしまえば「謎解き」なんだよな。
「誰が犯人なのか」「なぜ過去に戻るのか」みたいなことを明らかにする。

そして「読解には道筋がある」から外化(文章化・図化)しやすい。
逆に「感性には道筋がない」から難しい。

感情が先にある、という感覚が一番近い。
それを表現するには、文章力を鍛えるしかないのだろうか。
(ここで筆を投げる)

僕らの関心は世界構造へ

だれもかれも人には興味がなくなっているんだ。

「他人」である覚悟

他者に向けて何かを表明するという時点で
何かを拗らせてしまっている証拠である。
実に救いようがない人間だ。

コンテンツにぶら下がる人間の大半は宙ぶらりんな人間たちである。

2本目のギャルゲープレイ中のメモ

ギャルゲー遍歴

1作品目「ever17
状態 :クリア済み(CGおよびセリフの全回収は断念)
プレイ:数年前

2作品目「never7
状態 :プレイ中(優夏をクリア)
プレイ:現在進行中(16/02/14)

【疑問】「私」としての選択か、「彼」としての選択か

自分の選択が物語に影響を与えるゲームをやるときに、必ず考えることだ。
アイドルマスターをプレイしていた時は、「私」としてプロデュースを続けて
千早から「もう少し踏み込んでほしいです」ということを言われたし、
アクションRPGをプレイしていた時は、「彼」としての行動をし、
世界を救う勇者に仕立て上げたこともあった。

ギャルゲーをプレイする時、
「私」はその世界においてどのような位置づけにあるのだろうか?

現状想定している3つのパターンを以下に記載した。
「使い分けるのだ」というのならばそれでいいが、
一番作品を楽しめるのはどれなのかなー、というのは気になるところ。

端的にまとめると
「主人公は、私なの?彼なの?それとも物語を動かす道具なの?」

◆自己投影型
私ならば彼女に対してどう行動をとるのだろうか。
その考えのもとに、プレイヤー(主人公)を動かすのである。
※現在プレイ中の「never7」ではこのようにプレイしている。

ポイントは、等身大の自分としての行動だ、ということだ。
私自身がその場にいたとしたら彼女になんと投げかけるのか。
自分自身と物語を絡めていく遊び方。

この派生形に、「理想投影型」というものもある。
都合の良い理想の自分としてプレイヤーを動かすやつである。

◆主人公模倣型
物語の主人公である「彼」ならばどう行動をとるのだろうか。
その考えのもとに、プレイヤー(主人公)を動かすのである。

「私ならば」という選択ではなくて、
「彼ならば」が選択の基準となるため、
より物語の意図に沿った行動をとるようになってくる。

ギャルゲーの主人公は個性を剥奪されるのが常である
なんて話もきいたりするが、実際はどうなのだろうか?

◆観測者型
物語の観測者として、時間も意思も超越して主人公を行動させる。
一定の時間が経過するとコレにシフトするのではないか、と思っている。

私が初めてプレイしたギャルゲーは「ever17」であるが、
この時、一定の時間が経過したころから「謎解き」を始める「私」が現れるようになった。
主人公からも遊離して物語を俯瞰して眺める観測者としての「私」。

ever17」の場合、第三者としての「私」が出てくるのも当然かとも思うが、
他の作品でもそういった俯瞰して観測する「私」は現れるのかと思っている。

②【感想】想定と違う女の子に向かうこと

never7」をプレイ中、
当初は「遙」にアタックを仕掛けていたにもかかわらず、
肝試しで「優夏」と一緒に回ったからだろうか。

いつの間にか、優夏ルートへと真っ逆さまに落ちて行ってしまった。
※そのことを理解した時は落ち込んだが、展開はよかったので結果オーライである。

③【感想】2週目以降について

ギャルゲーは複数キャラを攻略するものであり周回を前提にしている、と思っている。
だからこそ、物語の初めてを捧げるキャラクターというのは大切になってくる。

何故かというと、物語に出会えるのは最初の一度だけだからである。
2週目以降になると未来を知る人間としての「私」がその出会いを邪魔する。

時間軸を束ねて一つの物語に昇華させる作品になると、
どうしても他のルートに知識や経験が私を主人公から引きはがしてしまう。

つまり、主人公と私の間に「認識の乖離」が起こってしまうんだ

物語上「未知」である事柄を私は「既知」として捉えてしまう。
1週目と同じ内容の会話。
1週目と関わる物語の謎。
1週目の彼女がチラつく風景・・・・・・

その世界で感じる出来事に何かしらの「既知」が差し込まれる。
それは、物語に対しての「新鮮さ」を損なわせる。


だからこそ、物語の初めてを捧げるキャラクターは大切なのだ。

【感想】言葉の波が顕著である

ギャルゲーというものは言葉の波が強いのではないかと思っている
「言葉の波」というのは、彼ら彼女らが話す言葉の抑揚とか
そういう感情をベースにした揺れ動きのことはもちろん、
認識とのズレとか引っ掛かりを含んでいる言葉である。
「実体を感じさせる」というのがイメージとしては近い。

一人に割り振られるセリフが多いからなのか、キャラクターにも波が出ているし、
彼ら彼女らが話す言葉自体が生きたものとして感じられる。

ありふれた言葉だが、
彼ら彼女たちが「生きている」のだと感じさせられる。


世界を包む/世界を貫く「謎」が中心に据えられている作品でさえそうなのだから、
人を中心に据えている作品ならばより強くそのことを感じさせられるのだろうな。

【感想】時折キャラクターが消える

アニメや漫画とは異なり、その場にいるすべての人間が描かれるということは少ない。
大抵画面上に(同時に)現れるのは、1人~3人くらいであるのではないだろうか。

そのため、長いこと会話に参加しないキャラクターが現れると、
「あいつはどこにいったのだろうか」ときょろきょろとあたりを見回す必要が出てくる。

描写の問題なのか仕込みなのかは知らないが、
居るはずの人間が視覚的に現れないというのは少し新鮮だ。

参考

インフィニティプラス

インフィニティプラス

社畜の時間活用術

社会の畜生(以下、社畜)として生きている人間というものは面白いもので、
仕事から逃れることのできる「休日」を手にしても「何もしない」ことが少なくないという。

社会で活躍しているであろう「社会人」なる人たちからすれば、
「どうしてせっかくの休日を友達と遊んだりしないのだ」
「どうして休日だというのに自分を高めようとしないのだ」
などと、社畜のことを阿呆か何かとしか見ていないのではないだろうか?

だが、彼らの言っていることはおおむね正しい。
荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といっていたように、
彼らは「自分の人生の有限性」を感じ取っているのだ。
自分の人生が有限であるとわかっているからこそ、
休日を謳歌し、自己を高めようなどと思うのである。

では、なぜそれが社畜にはできないのか。
金曜日で仕事に殺され、復活するには一回休みを経由しなくてはならないから。
とか、そういう体力・精神的に回復するために時間が必要であるというのも一つである。

しかし、私は「何もしない」のは社畜なりの時間活用術でもあると考えている。
社畜たちは社会人よりも「時間の可変性」を感じ取っているのである。

荒野を目指すアニメの少女もこんなふうに言っていた。
「ゲームだと時間が飛ぶだけだけど、ごろんごしてると心が癒される。」

楽しい時間はすぐに終わり、嫌な時間は永遠に終わらない。
自分の状態によって時間の幅というものは伸び縮みしている。

つまり、社畜たちは大切な休日を一秒でも長く感じるために、
「何もしない」という選択をとっているのである。
そうすることで、休日の終わりを先延ばしにしているのである。

休日に何もしないのは、社畜なりの時間活用術なのである。


補足①

「何もしない」という選択は、その日の時間を長く感じさせてくれる。
だが、その時間から遠く離れてしまったときには一秒以下の価値しか持たない。

何故なら、「何もしない」=「その時間の想い出を作らない」ということであるから。

振り返ったときに時間を感じるための「しるし」が何もしなかった時間には存在していない。
例えば、学生時代に「何もしなかった」場合は、社会人になってから振り返っても
「入学」から「卒業」までの間にブランクが生じることとなる。

何もしないという行動は「精神を守る」うえでは大いに役立つものであるが、
その多用は控えたほうが好ましいのではないかと思っている。

補足②

荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といった。
それに対して私は「どれだけの人間が本当にそう思っているだろうか」と感じている。
逆に、「1日が長すぎるから人は懸命に生きないのだ」などと思う人もいるはずだ。

そういう時間の有限性から「全能感の喪失」や「自身の限界」を感じることは少なくない。
だが、それを感じない人間というものも存在しており、ロミオの「ユーザー罵倒」にも書かれていた。
だがあの本を持っている人間も多くはないだろうから、この本をおすすめする。
山月記」である。

・己の場合、この存在な羞恥心が猛獣だったのだ。
・人生は何事かを為さぬには余りにも長いが、何事かを為すには余りに短い

「事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」
「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。」

幸いにも人間の形を保っているのならば、内に秘めた猛獣を飼い馴らすべきなのだろうな。

参考資料

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

現実脱出論 (講談社現代新書)

現実脱出論 (講談社現代新書)