夏めろ/水上秋 少女の少女性は未成熟にある。
―忘れないで。
空がこんなに綺麗だったこと。
エモーショナルなキャッチコピーに対して、
取扱説明書の The エロゲー感が抜けきらない感じが
エロゲー初心者である私の心に突き刺さる。
マブラヴとは異なった、真にエロゲーと呼ばれる作品。
マブラヴにあった恋と愛とは別次元に置かれたエロに関する物語。
エロゲーらしいエロゲーである夏めろにエロゲー童貞を奪われた私の感想である。
一言でいうとこんな感じ。
コンテンツ
・夏めろはどんなユーザーを想定しているのだろうか。
・エロゲー主人公について
・文学少女×スポーツ少女=少女=水上秋
・感想―これはリア充の夏休み-
夏めろはどんなユーザーを想定しているのだろうか。
スクリーンショットが撮れる、というのはエロゲーにおいては重要なことだ。
大事なシーンやムフフなシーンを画像として残しておけるというのはとてもうれしい。
しかし、この作品のスクリーンショットは「言葉」を残しておくことができない。
こんな感じでスクリーンショットが撮れます。
そうなってきてしまうとこの機能の使いどころがほとんどないのである。
エロシーンをスクリーンショットに収めるぐらいなものだ、と思う。
・・・・・・エロゲーならそれでいいのか。
その他にも、フォントが選べるという無駄機能が付いており、
こころが強く揺さぶられる。
ヒラギノでないと、メイリオしかダメなの。等というクレームが入ったのだろうか。
逆に感心したのは、"主人公の「仮性包茎」をON(強く推奨)"や"そしてあんよの靴下着脱の選択可能!"という言葉と機能だ。
エロゲーの努力はこういうところに生きているのだろうか。差別化の戦略がみてとれる。
また、学校ではなく学園と記載し、キャラクターのプロフィールには年齢を記載しない等
エロゲーは多くの敵と戦っているのだ、とわかる。
そしてその多くの敵に殺されてしまったのだ。悲しい。
エロゲー主人公について
時折どこで仕入れたのだ、という知識を披露するのが主人公である。
物語のどこにも関わってこない(水上√以外はまだ知りません)棕櫚(ワシュロ?)や、
スタージョンの法則、夾竹桃など、私の知らない言葉が頻出する。
昔のオタクが博識であったのは、おそらくこういうことなのだろう。
エロゲーにはちょこちょことした雑学がキャラクター性とともに差し込まれている。
彼女たちと会話をすることによってオタクたちは雑学を身に着けていったのであろう。
そのほかに気になった言動は、丁寧語に関する使い方である。
夏めろの主人公はエロシーンに入ると丁寧語を使用するようになる。
つたない、たどたどしい言葉は他者を敬うために用いられるのではなく、
「私はおまえよりも上の人間だ」ということを主張するために使われる。
水上秋とのエロシーンではまさにその用法が使われている。
エロ界隈ではよく用いられる「××ちゃんはいけない子だ。」に始まる
女性を男性がかわいがるという構図を際立たせるためにが用いられる。
「女の子が・・・・・・男に可愛がってほしいのは・・・・・・自然なことなんだから
男性の支配欲を満たすための言葉遣いがここにはあるのである。
また、それに類する行為としては質問⇒回答という形式にも表れている。
「おち●ちん、欲しかった・・・・・・?」
「欲しかった・・・・・・ですぅ・・・・・・」
ここでの質疑応答は、
質問者と回答者として立場を明確にさせ、
そのうえで自身の立場を自身の口で言語化させることで、
自身の立場と状況を認識させる儀式のようなものである。
その後に続く命令⇒実行の図式はさらにそれを強調したものであり、
支配者と被支配者という構造を確かなものにするわけである。
上記を総じてエロゲーの主人公について考えると、
主人公とは、他者(≒女性)に対してマウントを取れる人間である。
閑話休題。以下本文。
文学少女×スポーツ少女=少女=水上秋
水上秋とは小説が好きで、走ることも好きな主人公の後輩である。
東城綾や鷺沢文香のような破壊力のあるソレは持ち合わせていないものの、
文学少女×後輩という属性で多くの男性の心を引くことができるだろう。
そのうえに、走ることも好きだというスポーツ属性まで兼ね備えているのである。
文学×後輩、スポーツ×後輩そのどちらかに転んでしまったとしても外れはないだろう。
私はそう確信していたのであるが、その先にあったものは"少女"という言葉だけだった。
私が違和感を感じたのは以下の台詞である。
「こんなご都合主義なこと、あるわけ・・・・・・信じられない・・・・・・」
「うう、だって・・・・・・こんなこと・・・・・・」
「私、なんにもしてないんですよ?」
「それなのに、優しい先輩が声かけてくれて、私のことわかってくれて・・・・・・」
「しかもデートに誘ってくれて、告白してくれるなんて・・・・・・!」
「絶対少女マンガですよ!ご都合主義すぎます!」
告白された直後に出てくるセリフ。
動揺とともに現れる言葉には当人の本質が宿るものである。
その先に出てきた言葉が「絶対少女マンガですよ!ご都合主義すぎます!」という言葉。
その瞬間に私は彼女は少女だったのだと理解をした。
図書館に出没する、現代文学を読んでいるなどという理由から
私は勝手に彼女を文学的な少女だと思い込んでいたのである。
「彼女とは××である」というレッテル張りをして彼女の事をわかった気になっていたのだ。
勝手に期待をしてしまっていたのだ。彼女に対して。
そこから先は"文学少女 水上秋"ではなく"少女 水上秋"と認識される。
名前で呼び合うことに喜びを感じ、ふとした拍子に甘える少女。
そこには文学性も運動もなく、未成熟な少女として水上秋が現れる。
「女の子の服は、脱がすためにあるんですよ?
先輩もそのつもりで買ったんでしょ?」
そして、水上秋から綴られる物語の終着点は
自身の在り方の認識と明確化で迎えられる。
秋
「楽しい夏でしたね・・・・・・」
「こんなに楽しかったのは、ホントに久しぶり・・・・・・」
「小さい頃は男の子とよく遊んでたけど、私が女の子だってだけで
みんな遊んでくれなくなっちゃって・・・・・・」
「それからはずっと部活ばっかりでしたけど・・・・・・」
「先輩と会って、違う楽しみもあるんだってわかりました」
徹生
「あはは、部活のジャマになってないといいんだけど」
秋
「いいんですよ、そんなこと・・・・・・」
「昔は走ることぐらいしか、自分の価値を感じられることがなかったんです」
「でも今は先輩がいるし、そんなに頑張らなくてもいいんだって
思えるようになりました」
これまでの水上秋という少女は
主人公に対して流されるままにこの夏休みを過ごしてきた。
出会いも、会話も、告白も、エッチなことも、全て主人公とともに、
流されるように行動をしてきたのである。
そんな彼女が主人公との対決を通じて自身の中にある譲れない一線を見つけ出すのである。
この構造は主人公がエロシーンでとってきた質問⇒回答の明確化の構造と類似している。
エロシーンが質問を通じて彼女の立場を明確化したのに対して、
今回は主人公との対決を通じて、彼女の心の在り方(譲れない一線)を明確化している。
曖昧な結論に対して自身で線引きをした彼女の姿にそれが現れている。
・・・・・・少女の少女性とは"未成熟"という言葉に尽きる。
そして、それを物語のうえで体現させるためには"成長"が必須なのだ。
水上秋の物語は少女を体現するための物語であった。
planetarian/ほしのゆめみの物語/死は救済/感想
この作品は「泣ける」作品です。
面白さの判断基準としての「感動」
planetarianについてツイッターなどで検索して必ず見つかる言葉が「感動した/泣いた」というものだ。
確かに、映画館に行ってみると場面が暗転した瞬間に鼻をすするオタクの音が響き渡る。
かくいう私もそのオタクの一人であり、"ほしのゆめみ"にかかわるシーンで静かに泣いていた。
私自身も泣いていたのだ。
あるいは感動していたといっていいのかもしれない。
だからといって、planetarianが「面白い作品」といえるかというと疑問が残る。
「感動」と「面白い」は別物だ。
泣きたいだけなら「感動コンテンツ」でも観ていればいい。
「感動した」とか「泣いた」とかを他人と共有したい奴だけがみればいい。
ほしのゆめみの物語
劇場版(以下星の人)は「ちいさなほしのゆめ」の続編である。
にもかかわらず、物語のすべてが「ほしのゆめみ」に殉ずるものとなってしまっている。
未来へ続く、繋がっていくはずの物語が、
ほしのゆめみという過去の亡霊に囚われてしまっている。
過去に魅せられた光に囚われて、未来へ進むことができなくなった人たちの物語。
星の人とは過去の光に当てられた愚かな人間への呪い。
それが"ほしのゆめみ"から始まる「感動コンテンツ」。
だが、この作品には一つだけ特筆すべき点がある。
それは「死は救済」という真実を残している点だ。
死は救済
この作品のキャッチコピーにもなっている
「天国を二つに分けないでください」という言葉にもあるように、
この作品は常に「死」と共にある。
そして人が、ロボットが死ぬときは「過去の亡霊」から解放された瞬間。
未来を見つめることができるようになった瞬間に、生きることから解放されて、天国に至る。
花菱デパートという過去から解放されたゆめみ。
ほしのゆめみの願いから解放された屑屋。
彼らは死ぬことによって解放された。
そして、現実の世界ではなく死後の世界で再び出会うことができた。
(死後の世界に、星の人の姿ではなく屑屋の姿で入っていったことからも、
ゆめみから続く星の人から解放されたことを指示している)
それにこの作品に登場するすべての人間が死に際まで未来を見つめられない。
星の人は過去に囚われ、ちびっこも星の光(≒星の人)に囚われ、集落の人間は現在に囚われて。
誰もかれもが未来を見つけられないでいる。
死ぬことでしか救われない。
そんな世界の窮屈さと閉塞感を描き切った作品なのである。
感想
開幕から数分後、劇場には「これもしかしてただの総集編か?」という空気が漂っていた。
星の人の回想から始まった本編垂れ流しの映像に多くの人は困惑し、
一部の人はこれからほしのゆめみに待ち受ける未来を想い涙し、
ごく一部の人は本編の記憶を失おうと努力をした。
本編の最終話が流れた後に続いたのはほしのゆめみを救う物語であり、
垂れ流された本編はこのシーンのためにあったのだと、人々は気が付いた。
そのあとに残ったのは涙だけだった。
感想②
劇場に入る前のあの空気は忘れられない。
物語が始まる前の期待と不安をないまぜにした雰囲気はなく、
ただただ洗っていないタオルのような臭いが劇場内を覆い尽くした。
これが、オタクか。
感想③
「生きることしかできない人は、天国にはいけないの」
生きることに必死になっている内は外側のことは見えなくなる。
それは物理的にもそうだし社会的にも精神的にも時間的にも。
星の光を視る。
現在/過去/未来、そのすべてを見つめられるのがプラネタリウム。
それは時からの解放であり肉体からの解放であり世界からの解放。
「上手にいきるには、世界から解放される瞬間が必要なの」
一切の娯楽がなく、肉欲に耽ることもできない世界。
そんな世界では過去も未来も失われてしまう。
そして、星の光を視た者だけが天国に行くことができる。
星の舟に乗ることができるのは星を見ることができた者だけ。
プラネタリウムはいかがでしょう?
どんな時も消えることのない美しい無窮のきらめき。
満点の星々があなたをお待ちしております。
感想④
今にして思えば彼女は噛み合わないような会話をしてまでも
屑屋をプラネタリウムに留まってほしいと願ったのだろう。
システム的な会話の中に自身の願いを込めていたんだ。
自身の考えを未知のバグだと信じきれない彼女の曖昧な抵抗。
彼女を回るモーターのようにロボットだと断じ切れなかったのは、それが理由だったのだ。
壊れていたのではなく、ただただ・・・・・・
ぼっちは世界を変えたがる
今日も明日も雑文ばかりを書き散らす。
多分、そうすることでしかこの曖昧な感情を外に出してしまうことはできないから。