huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

世界の全ては認識だ

この世界を構成するすべてのものは『認識』されることによって存在する。
この世界を構成するすべてのものは『認識』されなければ存在することはできない。

『認識』こそがこの世界を統べるルールである。
『認識』こそが個を個足らしめるのである。
『認識』こそが我である。
『認識』こそが君である。

僕らが他者に『承認』してもらいたいと思うのは、
そうすることで僕らが『認識』の力を得ることができるからだ。
そうすることでしか力を得ることはできないからだ。

・・・・・・では、力とはなんであるか。力とは影響力である。
それは個人への影響力か。否。世界への影響力である。
『認識』の力はさらなる『認識』の力を呼び、世界への影響力を高めていく。

それは善なる『認識』でも悪なる『認識』であってもどちらでもいい。
どちらであっても世界への影響力は変わらないのだから。

・・・・・・では、世界への影響力とは何か。
世界への影響力とは自由である。
世界への影響力とは抑圧である。
世界への影響力とは自在である。
世界への影響力とは束縛である。

勇者は勇者としての役割に縛り付けられるが、
すごろくをし、カジノをし、世界を救い、某国の姫君と結ばれることができる。
一方村人は勇者と比べればゴミほどの責務しかないが、
その村から離れることはできないし、冒険をすることはできないし、某国の姫君と結ばれることは決してない。

どちらの生き方が望ましいとかそういう話ではない。

どれだけ『認識』されているかによってその人の行動には制限がかかる一方で、
どれだけ『認識』されているかによってその人の行動には自由が認められる。


『認識』はその世界に個人を縛り付ける一方でその世界における自由を認める。


だから僕らは『認識』を求めるんだ。
それ故にどれだけの制限が課されたとしても、その世界で成し遂げたい何かがあるから。




「――――認識からの解放こそが救いとは思わない?」