huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

ぼっちの自分探し

自分探しは「あなたはそのままでいいよ」と言ってくれる
他人が現れた時に終わるという。

つまり、ぼっちには攻略不可能な難題だというわけだ。

自己肯定

他人に肯定してもらえない人間は自分で肯定してあげるしかない。
インターネットを見てみると、自分で自分を肯定している人がたくさん見つかる。
一人で勝手に悟ったふりして記事を書いている。

「……答えは得た。俺もこれから頑張っていくから」

何物ともぶつかることなく、
内側で乱反射して削れた「主張」を
「真実」のように扱ってしまう。

残念なことに、それを否定してくれる「他人」はぼっちには存在しておらず、
間違っていることに気が付かないままに、歩み続ける。

ぼっちの「自己肯定」は
自分を「進める」ためでなくて
自分を「守る」ためでしかない

ぼっちの自己肯定

「僕はここにいてもいいんだ!」

あなたが決められるのは、「ここにいたいかどうか」でしかない。
「いてもいいかどうか」は周囲の人間が決めること。


「私は一人でも大丈夫」

繰り返し唱えれば、現実をそちらよりに歪められると思った?
世間一般が思っているように、あなたは大丈夫じゃないよ。


「私は私のやり方でいいんだ!!」

みんなちがってみんないい。
だが他人のやり方を理解することもなく、
自身の狭量な世界だけで見つけた「真実」を
他人が承認してくれるわけがないだろう。




……つまるところ、ぼっちの「自己肯定」には「他人」が存在していない。

本来「肯定」とは、自分の世界に干渉する「他人」との間になされる。
世界に私一人だけであったならば、「肯定」も「否定」も必要ないから。
つまり、「肯定」には「他人」が必要である。


ぼっちの「肯定」は他人を「拒絶」する。
皮膚の外側の「他人」を「敵」として認識し、
人間として理解することをやめる。
つまり、他者を遠ざける。

ぼっちは「真実」を他者の手の届かない位置に持っていく。
それは、精神的に遠ざけるということもそうであるし、
物理的に遠ざけるということでもある。

本能的に自身が抱える「真実」が偽物だと知っているからだろう。
他者との軋轢にソレが耐えられないと知っているから、
誰にも見つからないようにしてしまうんだ。

だから、ぼっちはいつまでたっても救われない。

(補)意識が高い「自己肯定」

……「意識高い系」ならまだ救いがあるんだ。
彼らもまた、普通とはズレた「真実」を掲げて、歩こうとする。
ただ、彼らには「現実」という「他人」が存在している。
空想ではない「壁」がいる。

彼らの持つ「偽物」を否定し、「真実」に叩き上げてくれる。

それの何がいいのかというと、
「真実」で「偽物」を打ち砕いてくれるところにある。
正しいものを見せられた人間は、それに対して行動をとることができる。
「真実」を模倣するとか、「真実」を内包した「本物」を作るとか。
そんな風にして、彼らは「真実」を手に入れる。

ただ、本当に意識が高いだけの人は、
何も変わらないのですぐわかる。
ぼっちと同じ。
それだけの話。

ぼっちの自分探し

自分自身の手で「肯定」と「否定」を繰り返す

「否定」してくれる他人がいない
「真実」を突きつける他人がいない
「本物」をみせる他人がいない
「同意」を示す他人がいない
「肯定」してくれる他人がいない

「肯定」も「否定」も必要ないんだよ。