huzai’s blog

「ぼっちの生存戦略」とか「オタクの深化」とかそういうことについて考えています。

生存報告と思考の整理

久しぶりにブログを書こうとすると、
なかなかに文章をまとめられないものだと感じる。
というわけでつらつらと文章を書きつける。

ツイッター+αぐらいの認識でいてくれるとうれしい。

実に最低な文章だ。

拗らせ男子の永久迷路

インターネットに身をやつしている人間というものは、
何かしら「拗らせて」しまっている人が多いものである。

それは例えば「人間関係」であったり
それは例えば「青春」であったり
それは例えば「趣味」であったり

それは例えば……と挙げていけば際限がない。
人それぞれ拗らせてしまっている対象は様々であるが、
彼らに共通しているのは「同じ結論に行きつく」ことである。

彼らはただ、答えのない迷路をさまようだけだ。
その迷路に閉じ込められてしまうのは、「他者の不在」が原因だ。

自分一人じゃその「歪み」に気が付けないんだ。
(彼も多分そのことには気が付いているはず、なんだけれど
 いや、私がそうだと思い込んでしまっているのだろうか)

救いの手なんて優しいものである必要はなくて、
世界の壁をハンマーでぶっ壊した由乃のように、
容赦なくその迷路を壊してあげてほしい。

彼もその迷路の先には何もないとわかっているのだ。
そう思うことができないところまできてしまっているのか、
そういう「空想」に縋るしかないところまできてしまっているだけ。

彼が勝手に感じる「他人」なんかじゃなくて、
明確に彼と敵対し、彼を解体する「悪役」が必要なんだ。
そんなやつがいたら私にくれ。

コンテンツの「正しさ」について

(極論だが)この世の中に確かな事実があるとすれば、
それは『あなたとわたしは違うのだ』ということだけだ。

この事実自体は多くの小説や他人によって語られていること。
(もちろんゲームでも語られていることである)

そして我々が正しさを共有できているのは、
『社会』という共通の幻想があるからである、
というのも言壺や現実脱出論で語られていることである。

つまり、「正しさ」について議論をするときには
その立場を明確にしなくてはならないわけである。
(ただ、「正しさ」を主張する時は、
 社会的に「お前が間違っている」か、
 私的に「お前が間違っている」か、
 どちらかを伝える時だけだ)

で、そんなことは誰しもわかっていることなのだが、
感性の果てにある「真実」は共有のものだと信じたがるらしい。
あるいは「彼」や「彼女」が感じたのだから「私も触れられる」と思いたいのか。

「等身大の私が触れたものがそのコンテンツの全て」とは知りつつも、
私が触れられる世界を広げたいと思うのが人というものである。

ただまぁ、面倒なことにコンテンツというやつは「読解力」と「感性」が必要なのである。

「読解力」というやつはなんとなく身に着けやすい、と認識されている。
読解力とは「道筋を見つけ出す力」であり、時間と労力と経験値でそれを補える。
だからブログではそれがよく見受けられる。

例えば、「あのシーンのリンゴは彼女を表している」とか。
例えば、「だれもめぐねぇと会話をしていなかった」とか。

言ってしまえば「謎解き」なんだよな。
「誰が犯人なのか」「なぜ過去に戻るのか」みたいなことを明らかにする。

そして「読解には道筋がある」から外化(文章化・図化)しやすい。
逆に「感性には道筋がない」から難しい。

感情が先にある、という感覚が一番近い。
それを表現するには、文章力を鍛えるしかないのだろうか。
(ここで筆を投げる)

僕らの関心は世界構造へ

だれもかれも人には興味がなくなっているんだ。

「他人」である覚悟

他者に向けて何かを表明するという時点で
何かを拗らせてしまっている証拠である。
実に救いようがない人間だ。

コンテンツにぶら下がる人間の大半は宙ぶらりんな人間たちである。

2本目のギャルゲープレイ中のメモ

ギャルゲー遍歴

1作品目「ever17
状態 :クリア済み(CGおよびセリフの全回収は断念)
プレイ:数年前

2作品目「never7
状態 :プレイ中(優夏をクリア)
プレイ:現在進行中(16/02/14)

【疑問】「私」としての選択か、「彼」としての選択か

自分の選択が物語に影響を与えるゲームをやるときに、必ず考えることだ。
アイドルマスターをプレイしていた時は、「私」としてプロデュースを続けて
千早から「もう少し踏み込んでほしいです」ということを言われたし、
アクションRPGをプレイしていた時は、「彼」としての行動をし、
世界を救う勇者に仕立て上げたこともあった。

ギャルゲーをプレイする時、
「私」はその世界においてどのような位置づけにあるのだろうか?

現状想定している3つのパターンを以下に記載した。
「使い分けるのだ」というのならばそれでいいが、
一番作品を楽しめるのはどれなのかなー、というのは気になるところ。

端的にまとめると
「主人公は、私なの?彼なの?それとも物語を動かす道具なの?」

◆自己投影型
私ならば彼女に対してどう行動をとるのだろうか。
その考えのもとに、プレイヤー(主人公)を動かすのである。
※現在プレイ中の「never7」ではこのようにプレイしている。

ポイントは、等身大の自分としての行動だ、ということだ。
私自身がその場にいたとしたら彼女になんと投げかけるのか。
自分自身と物語を絡めていく遊び方。

この派生形に、「理想投影型」というものもある。
都合の良い理想の自分としてプレイヤーを動かすやつである。

◆主人公模倣型
物語の主人公である「彼」ならばどう行動をとるのだろうか。
その考えのもとに、プレイヤー(主人公)を動かすのである。

「私ならば」という選択ではなくて、
「彼ならば」が選択の基準となるため、
より物語の意図に沿った行動をとるようになってくる。

ギャルゲーの主人公は個性を剥奪されるのが常である
なんて話もきいたりするが、実際はどうなのだろうか?

◆観測者型
物語の観測者として、時間も意思も超越して主人公を行動させる。
一定の時間が経過するとコレにシフトするのではないか、と思っている。

私が初めてプレイしたギャルゲーは「ever17」であるが、
この時、一定の時間が経過したころから「謎解き」を始める「私」が現れるようになった。
主人公からも遊離して物語を俯瞰して眺める観測者としての「私」。

ever17」の場合、第三者としての「私」が出てくるのも当然かとも思うが、
他の作品でもそういった俯瞰して観測する「私」は現れるのかと思っている。

②【感想】想定と違う女の子に向かうこと

never7」をプレイ中、
当初は「遙」にアタックを仕掛けていたにもかかわらず、
肝試しで「優夏」と一緒に回ったからだろうか。

いつの間にか、優夏ルートへと真っ逆さまに落ちて行ってしまった。
※そのことを理解した時は落ち込んだが、展開はよかったので結果オーライである。

③【感想】2週目以降について

ギャルゲーは複数キャラを攻略するものであり周回を前提にしている、と思っている。
だからこそ、物語の初めてを捧げるキャラクターというのは大切になってくる。

何故かというと、物語に出会えるのは最初の一度だけだからである。
2週目以降になると未来を知る人間としての「私」がその出会いを邪魔する。

時間軸を束ねて一つの物語に昇華させる作品になると、
どうしても他のルートに知識や経験が私を主人公から引きはがしてしまう。

つまり、主人公と私の間に「認識の乖離」が起こってしまうんだ

物語上「未知」である事柄を私は「既知」として捉えてしまう。
1週目と同じ内容の会話。
1週目と関わる物語の謎。
1週目の彼女がチラつく風景・・・・・・

その世界で感じる出来事に何かしらの「既知」が差し込まれる。
それは、物語に対しての「新鮮さ」を損なわせる。


だからこそ、物語の初めてを捧げるキャラクターは大切なのだ。

【感想】言葉の波が顕著である

ギャルゲーというものは言葉の波が強いのではないかと思っている
「言葉の波」というのは、彼ら彼女らが話す言葉の抑揚とか
そういう感情をベースにした揺れ動きのことはもちろん、
認識とのズレとか引っ掛かりを含んでいる言葉である。
「実体を感じさせる」というのがイメージとしては近い。

一人に割り振られるセリフが多いからなのか、キャラクターにも波が出ているし、
彼ら彼女らが話す言葉自体が生きたものとして感じられる。

ありふれた言葉だが、
彼ら彼女たちが「生きている」のだと感じさせられる。


世界を包む/世界を貫く「謎」が中心に据えられている作品でさえそうなのだから、
人を中心に据えている作品ならばより強くそのことを感じさせられるのだろうな。

【感想】時折キャラクターが消える

アニメや漫画とは異なり、その場にいるすべての人間が描かれるということは少ない。
大抵画面上に(同時に)現れるのは、1人~3人くらいであるのではないだろうか。

そのため、長いこと会話に参加しないキャラクターが現れると、
「あいつはどこにいったのだろうか」ときょろきょろとあたりを見回す必要が出てくる。

描写の問題なのか仕込みなのかは知らないが、
居るはずの人間が視覚的に現れないというのは少し新鮮だ。

参考

インフィニティプラス

インフィニティプラス

社畜の時間活用術

社会の畜生(以下、社畜)として生きている人間というものは面白いもので、
仕事から逃れることのできる「休日」を手にしても「何もしない」ことが少なくないという。

社会で活躍しているであろう「社会人」なる人たちからすれば、
「どうしてせっかくの休日を友達と遊んだりしないのだ」
「どうして休日だというのに自分を高めようとしないのだ」
などと、社畜のことを阿呆か何かとしか見ていないのではないだろうか?

だが、彼らの言っていることはおおむね正しい。
荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といっていたように、
彼らは「自分の人生の有限性」を感じ取っているのだ。
自分の人生が有限であるとわかっているからこそ、
休日を謳歌し、自己を高めようなどと思うのである。

では、なぜそれが社畜にはできないのか。
金曜日で仕事に殺され、復活するには一回休みを経由しなくてはならないから。
とか、そういう体力・精神的に回復するために時間が必要であるというのも一つである。

しかし、私は「何もしない」のは社畜なりの時間活用術でもあると考えている。
社畜たちは社会人よりも「時間の可変性」を感じ取っているのである。

荒野を目指すアニメの少女もこんなふうに言っていた。
「ゲームだと時間が飛ぶだけだけど、ごろんごしてると心が癒される。」

楽しい時間はすぐに終わり、嫌な時間は永遠に終わらない。
自分の状態によって時間の幅というものは伸び縮みしている。

つまり、社畜たちは大切な休日を一秒でも長く感じるために、
「何もしない」という選択をとっているのである。
そうすることで、休日の終わりを先延ばしにしているのである。

休日に何もしないのは、社畜なりの時間活用術なのである。


補足①

「何もしない」という選択は、その日の時間を長く感じさせてくれる。
だが、その時間から遠く離れてしまったときには一秒以下の価値しか持たない。

何故なら、「何もしない」=「その時間の想い出を作らない」ということであるから。

振り返ったときに時間を感じるための「しるし」が何もしなかった時間には存在していない。
例えば、学生時代に「何もしなかった」場合は、社会人になってから振り返っても
「入学」から「卒業」までの間にブランクが生じることとなる。

何もしないという行動は「精神を守る」うえでは大いに役立つものであるが、
その多用は控えたほうが好ましいのではないかと思っている。

補足②

荒野を目指すアニメの少女が「1日24時間じゃ足りない」といった。
それに対して私は「どれだけの人間が本当にそう思っているだろうか」と感じている。
逆に、「1日が長すぎるから人は懸命に生きないのだ」などと思う人もいるはずだ。

そういう時間の有限性から「全能感の喪失」や「自身の限界」を感じることは少なくない。
だが、それを感じない人間というものも存在しており、ロミオの「ユーザー罵倒」にも書かれていた。
だがあの本を持っている人間も多くはないだろうから、この本をおすすめする。
山月記」である。

・己の場合、この存在な羞恥心が猛獣だったのだ。
・人生は何事かを為さぬには余りにも長いが、何事かを為すには余りに短い

「事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」
「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。」

幸いにも人間の形を保っているのならば、内に秘めた猛獣を飼い馴らすべきなのだろうな。

参考資料

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

TVアニメ「少女たちは荒野を目指す」 ED主題歌「世界は今日もあたらしい」

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

現実脱出論 (講談社現代新書)

現実脱出論 (講談社現代新書)

彼女は海辺で待っている。

少し前に、最近は燃えやすいコンテンツの方が好まれる、
という話をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。

簡単に言うと、
話題になるようなコンテンツの方が好まれる、という話。

燃えそうなものをみつけては煽り立て、
燃えカスになったところで次の火種を探しに行く。
そんな焼畑的にコンテンツを破壊しているのが昨今の状況である。

そんな世界を見つめている人がどれだけいるかは知らないが、
その中の一つの意見として、今日私は書く。

コンテンツも変わった。
人も変わったのだ。
ただ、それだけだ。

※雑文嫌いは、「彼女は海辺で待っている。」まで飛ばしてください。

過去と現在の彼女(コンテンツ)との関係性

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パワポで作ったものなので、雑なのはご容赦いただきたい。

まぁ、今私が感じているのはこういうことである。
誰も彼もが彼女そのものをみることをしなくなっている。
「彼女という存在はコミュニケーションの道具に成り下がっている」

順番が逆になってしまっているんだよな。
あのころは、彼女が好きだったからそれを誰かに伝えたくて会話にしていた。
今は、誰かと会話をするためにコンテンツに触れるようになった。

つまるところ、過去と現在では観ているところが違うんだ。

過去は、彼女が居るその世界を。
現在は、会話をする他人が居る、彼女が居る世界の外側を。

私は、後者の在り方が苦手だ。
コンテンツとは耽溺するものであって、誰かに話すためのものではない。

敵のいなくなった世界でも最強を目指すのがRPGというものであり、
彼ら彼女らそのものでありそれ以外でもあるのが小説である。

コンテンツの内側に向けられた熱量からあふれ出たものが、
他者の目に留まるというのが常であり、そうであってほしかった。

けど、それは正しいことで

さいころはゲームが好きだったのに、
大人になったらゲームが好きではなくなる人がいる。

多分、そういう人はゲームそのものが好きだったのではなくて、
ゲームというコンテンツを媒介にして形成される「場」が好きだったのだと思う。
その人にとっては、「友達と盛り上がりながらするゲーム」が好きなのであって、
「一人で上り詰めるゲーム」は好きではなかったのだろう。

そういう人の多くは幸いにして「ゲームを媒介にする場」ではない、
他のコンテンツを手に入れることができるようになっている。

だが、なかにはそのほかの媒介を手にすることができず、
「惰性」として好きでもないゲームを続けている人がいる。
ゲームをやれば楽しかったあのころが戻ってくる、なんて思っているのだろうか。


・・・・・・話を元に戻そう。
コンテンツをコミュニケーションのための媒介にすることは間違った使い方ではない。
コンテンツによっては、そうされることが望ましい場合もある。

さらに言えば、コンテンツから「価値」を得るにはこういう使い方でなくてはならない。
コンテンツを何かしらのツールとする、それで得られるものは少なくないから。

彼女は海辺で待っている。

これまでの話をまとめると

【彼女(コンテンツ)そのものへの興味関心が薄れてきている】 ということだ。

僕らの興味関心は「コンテンツを通じて得られる価値」にシフトしており、
コンテンツそのものに対する愛情やそれに類するものは失われつつある。

だが私はそれ自体はなんとかなるのではないかと思っている。
安価な大量生産品が好まれ始めてから色物が好まれ、本物へと回帰する流れは世の常である。

現在はようやく色物が好まれるような時代になってきた。
ラノベの主流が「最強」から「最弱」へ、「万能」から「唯一」へとシフトしたように、
現在は「王道」から「その他」へと興味関心が移りつつある。
いずれは、コンテンツそのものへと目が向かうことを期待してもよいのではないだろうか。

私にできることといえば、
「彼女が海辺で待っているよ」と言ってあげることぐらいなことだろう。
(あるいは、彼女自身を作り出すことだろうか)

彼女の姿を見失わないで。

現実を視るのか、リアルを視るのか、

コンテンツに触れているとそういうことを考えたりしませんか?

作品そのもの(=現実)を観るのか、
作品が表現したかった世界(=リアル)を視るのか、

僕らはどうするのが正しいのだろうか、と。

この辺りがごちゃごちゃしたまま感想を述べたところで、
他者との共有は難しいのかなーって思ってみたりする。

と、ゆーわけで今一度整理をしたいと思う。

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A.コンテンツを視る

AURAの映画のレビューなどに書かれていたのが、
「低予算だったのだろうか」「尺が短いなかよく頑張った」
という作品とは関係のない「現実の問題」を上げていて違和感があったことを覚えている。


 コンテンツだけを視る人間は、完成された「作品」としての評価を下す。

コンテンツを観る人というのは、総合評価(減点式)で作品を視ることだととらえている。
演技が世界観に入り込むことを妨げるから-1点、ストーリーが飛んでいるから-2点、みたいに
総合評価式の人は減点で作品を見ているような気がしてならない。

実際、台風のノルダがやっていたころ、
「作画はいいけど演技が……ね」とか「ストーリー構成がちょっと……」みたいなレビューが上がっており、
総合評価が低かった印象がある。

台風のノルダ DVD通常版

台風のノルダ DVD通常版

審査員のように作品をみる、というわけ。
それがコンテンツ(作品)として視るというやつ。

B.コンテンツが表現するリアルを視る

コンテンツがリアルを表現するための媒体であるという捉え方。
ありていに言えば、「この作品が表現したかったものを視る」ということ。

リアルを視る人間は、不完全な世界の奥にある「ナニカ」を手にしようとする。

プラスティックメモリーズなんかがいい例だ。
本当はワンダラーを始めとしたターミナルサービスの仕事が「アイラとツカサ」と結びついて
彼と彼女の物語として作り上げられる作品だった、と私は思っている。
ただ私の所感としてはそこがつながっていない、あるいは断ち切られる要素があったために、
作品としてはいまいちな出来栄えになってしまった気がしている。
 
だが、リアルを視ることにこだわってみればいい作品になることは間違いない。
足りない要素を「補い」、断ち切られる要素を「誤魔化す」ことによって、
この作品が表現したかったリアルを見つけ出すことは可能である。

また、リアルへの到達方法は様々であって、
欠けたレンズを埋めるようにする方法や、表現方法(作画やカメラワーク?など)から導き出すということも可能である。










C.

・・・・・・なるほどね。普通の状態なら、素人だろうとプロだろうと、演奏の善し悪しなんざ聴けばわかるもんだ。でも、審査をするとなると、高い点数・低い点数をつける『理由』を探すのに必死になってしまう。
――サヨナラピアノソナタ 3