【感想】魔法少女育成計画
無価値なものはあっても、無意味なものはない・・・・・・はずだったのだけれど、
蓋を開けて全てを並べてみてみるとその内のほとんどは無価値で無意味なものだった。
ソーシャルゲームと同じで行為そのものを目的としているようなそんな作品。
本当は1話ずつ感想を書いていこうかと思っていましたが、
想像していた以上に少女達が戦うだけであったので書くことがなかった。
以下感想。
少女同士が無意味に闘うだけの物語
私は1話を観たときにこんな感想を書いていました。
【魔法少女には悲劇が似合う。】
開幕から血の海をみせつける辺りに、「この物語はダークファンタジーです」っていう明るい魔法少女の話ではなくて暗い、夜の魔法少女のお話ですよーって自己紹介をする。魔法少女の悲劇を始めに魅せることで、彼女達の日常が「ニセモノ」であることが視聴者の中で決定づけられる。
我々は何気ない日常の中で膨らみ続ける爆弾がどこにあるのかと、その爆弾はいつ爆発するのだろうかと、我々視聴者は緊迫感を持って見せ続けられることになる。つまり、きゅうべぇが言っていた「少女の希望が絶望に転換する瞬間」を我々は今か今かと待ち続けることになるのだ。
それは我々を彼女達の立場から切り離し、「観客(≒視聴者)」の立場に貶め、少女達の悲劇を楽しむ下種な人間にする。
あのカットを最初に持ってきたのはそういう意図があるのではないかと思う。
――【感想】魔法少女育成計画 1話 夢と魔法の世界へようこそ!
終わってみるとまさにその通りで、
悩み苦しむ少女たちの姿に感情移入して「うんうんそうだよね~わかるー♪」ということは一切なく、
ただ、少女達がバトルロワイヤルをする姿を楽しんでいただけであった。
少女たちの背景はそれぞれの少女の死を彩るためのスパイスでしかなくて、
それによって引き起こされる「感情」よりも「事実」が重要視されており、
Aが倒れることでBが、BがCを倒すことで、Dが、といったように少女たちの「死」は連鎖している。
少なくとも、スノーホワイトを除いた少女たちはそういった「死の連鎖」に巻き込まれているわけです。
といったような、「少女達の行為」に主眼が置かれているのが本作だったのかな、と思います。
とはいいつつも、
ハードゴアアリスちゃん、ラ・ピュセルちゃんはとっても可愛いかったですよね!
■ラ・ピュセルちゃん
男の子でありながら魔法少女に憧れるラ・ピュセルことそうちゃん。
女性らしさの中に男の子のパーツ(卑猥な意味ではない)を兼ね備えた強力な魔法少女!
登場人物の中では一番「飾っていた」少女だと思います。
キャラメイクは自分で行っているはずなので、
そうちゃんの考える女性像がラ・ピュセルには反映されているはずで、
あの竜剣士的な格好の中に込められた乙女の部分がそうちゃんから出ているわけです。
まぁ、だからなんだという話ではありますが。
■ハードゴアアリスちゃん
可愛い。首だけ持っていったら困ったように追いかけてきそう。
でも、魔法少女になっても痛覚は残ってるはずだと思うけれど、
硫酸掛けられたり、燃やされたりしても大丈夫なのはなぜだろうか。
本当は痛いけれども我慢しているのか、無痛症だったりするのだろうか。
あと、スノーホワイトと二回目(魔法少女として)に出会ったときに謎の動きをしていたのも可愛い。
素直にコミュニケーションが取れない感じが可愛い。
スノーホワイトに延々と褒められて、逃げ出して欲しい。
最後に
彼女は、この後どうなるんだろうな。
何を『正しい』として魔法少女で在ろうとするんだろうか。
理想だけで取りこぼすものがあることを知り、力を求めた彼女は。
「清く、正しく、美しい魔法少女」であれるのだろうか。
- 作者: 遠藤浅蜊,マルイノ
- 出版社/メーカー: 宝島社
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【感想】魔法少女育成計画 2話 マジカルキャンディーを集めよう!
清く正しく美しい魔法少女であるためには、
他の魔法少女を蹴落とさなくてはならない。
でも、そんなものが本当に魔法少女・・・・・・なのかな?
■概要
ファヴからこの街に増えすぎた魔法少女を半分にするために、
毎週一番マジカルキャンディーが少なかった少女を脱落させるという新ルールが策定される。
姫河小雪はラ・ピュセルと協力しマジカルキャンディーを集めるが・・・・・・
【感想】魔法少女育成計画 1話 夢と魔法の世界へようこそ!
少女らしい幻想的な夢に包まれた魔法少女達の物語。
きゅうべぇみたいなハム太郎が出てくるところから物語は始まり、
少女たちが運命の螺旋に巻き込まれる様を描いていくような気がしている。
■概要
魔法少女の目撃情報と共に広がる「魔法少女育成計画」というゲーム。
噂によると魔法少女育成計画を遊んでいると何万人かに一人が魔法少女になれるとのことらしい。
清く正しく美しい魔法少女に憧れる中学二年生――姫河小雪――は、
ゲームを遊んでいると、ファヴというマスコットキャラクターから本当の魔法少女に任命される。
そうして、彼女はこの街に住む魔法少女達との物語が始まったのである・・・・・・
しょっぱなからダークファンタジー
【魔法少女には悲劇が似合う。】
開幕から血の海をみせつける辺りに、「この物語はダークファンタジーです」っていう明るい魔法少女の話ではなくて暗い、夜の魔法少女のお話ですよーって自己紹介をする。魔法少女の悲劇を始めに魅せることで、彼女達の日常が「ニセモノ」であることが視聴者の中で決定づけられる。
我々は何気ない日常の中で膨らみ続ける爆弾がどこにあるのかと、その爆弾はいつ爆発するのだろうかと、我々視聴者は緊迫感を持って見せ続けられることになる。
つまり、きゅうべぇが言っていた「少女の希望が絶望に転換する瞬間」を我々は今か今かと待ち続けることになるのだ。
それは我々を彼女達の立場から切り離し、「観客(≒視聴者)」の立場に貶め、少女達の悲劇を楽しむ下種な人間にする。
あのカットを最初に持ってきたのはそういう意図があるのではないかと思う。
ラピュセルちゃんについて
【女はいいよな、魔法少女になれるから】
彼女が化粧が濃いイメージだったのは彼女が男だったからなのだ・・・・・・
男性の考える女性像としての肉体(≒おっぱい)を望んでおきながらそれだけでは自分に対する自信が持てないので、
他の魔法少女には見られない『化粧』という概念を持ち込み、造られた少女らしさを演出している・・・・・・気がする。
これからについて
【この地域の魔法使いを減らすことにしたぽん】
最初に『魔法使いは足りないぽん』とか言っておきながらこの仕打ちである。
まさに畜生である。
多分、魔法少女同士で戦うことになるんでしょうね。
魔法少女を倒すのが一番効率よくキャンディーを集める方法とか、PK(プレイヤーキル)的な話として。
何が正しいかは自分次第さ。――魔法少女は法に縛られない
けものフレンズについての雑感/備忘録
なんとはなしに語ることが憚られるコンテンツといえば……けものフレンズだろう。
ある新聞でも取り上げられたりした辺り、ある程度の「社会現象」なるものを引き起こしたのだが、
そのことについてとりたてて語ったりすることは、語ったりする人は少なかったような気がしている。
それもそのはずで下手に触れてしまえば、「キミは自分が賢いと思っているフレンズなんだね」と言われかねない。
文脈だけが引き抜かれ、構文化された世界のように見えるが、そこには確かに感情がある。
だからなんだというわけなのだが。
以下備忘録。
コンテンツ
■【無】トキちゃんは可愛くトキさんは尊い。
■【破】死にゆくものこそ美しい。
■【欲】僕らは虚空にエロを視る
■【知】フェネック、考察なんてやめるのだ。
社畜だってコンテンツになる
社畜。社畜。社会の畜生。
暦通りに働くことを余儀なくされ、
暦の外では静かに働くことを余儀なくされる存在。
触れられるものすべてが業務にさせられるそんな存在。
それが、それこそが社会の畜生たる、社畜なのである。
かつての人類は労働時間をステータスにしていたが、
今の人類は社畜すらもの萌えコンテンツ(死語)にしているのだ。
コンテンツ化される社畜。
私が社畜がコンテンツにされているのをはじめてみたのは、これだと思っている。
『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』
2chのスレを本にするというあたりに当時は幾ばくかの香ばしさをかんじていたが、
このあたりで社畜もコンテンツになりうる可能性が出てきたのだと思っている。
似たような系列でいくと「なれる!SE」なんかもそうであろうか。
社畜であるという「体験」をベースにコンテンツが形成されている。
(小さい女の子が出てくるのでおすすめです。あくまでも小さいだけです)
そして、WEBでコンテンツを配信することが一般的になってきたあたりで、
社畜のコンテンツ化はより加速していく。
有名どころでいえば、「いきのこれ!社畜ちゃん」などであろうか。
(おっぱいが大きい可愛い女の子が出てくるのでおすすめです)
そのほかにも「いのりちゃんの残業日誌」や「社畜と幽霊」などの社畜関連の漫画はさがせば探すほどでてきます。
また、ツイッター方面に眼を向けると
少し前までは「めうちゃん」を社畜に仕立て上げて詰める話が人気だっためう!
もちろんめうちゃんに暴力を振るうだけのものも多かったですが、
一部ではキチンと仕事の中で詰められるめうちゃんや
労働時間のマジックを利用して働くめうちゃんの姿がよく見えていました。
やったね!めうちゃん!
最後に「小説家になろう」などのWEB小説ちほーに眼を向けると
数年前までは転生トラックに轢かれて転生するのは学生だったにも関わらず、
今では仕事中に過労死をするという社畜転生が増えているではありませんか!
・・・・・・このようなかたちでWEB方面から書籍に至るまで
社畜はみんなに消費されるコンテンツとして使用されるようになってきているのです。
僕らは漫画に幻想をみる
多くの日本人が共通している体験は「学生」である。
そこで行われる体験の大小はあれど多くの人が「あるある」といった体験を持っている。
そして、それと同じくらいに「社畜」という体験が共有化され始めている。
多くのコンテンツは学生の中の「××部」といった形で学生というレンズの中でピントを絞るものや
「学生×魔法」「社畜×異世界」などの一つだけの嘘を交えて広げていく作品が多いのである。
共通の体験を軸に「異界」を展開するのが従来のやり方であったのだ。
(それゆえに体験の軸が大きくブレる「大学生」は描かれにくい。
仮に描くとしても大学生という大枠ではなくその中のサークルなどが大半・・・・・・だと思う。)
そうした文脈がある中で、学生に変わる軸として社畜が評価され始めているわけである。
まぁだからなんだという話ではあるが。