計画×他人×当事者
私は計画を建てるのが苦手である。
それは多分、
未来を見つめるのが苦手であるというのと、
現実を見つめるだけの勇気がないという理由からだ。
そして、それはおそらく「嘘」だ。
◆無計画でも楽しめる
計画がない人間というのが存在する。
旅行に行くとしても、宿泊先や観光場所も決めない人間が居る。
あるいは、どのような職業に就くのか決めずに幸福に過ごす人間が居る。
計画は人間を加速させ得るが、無くともどうにかなる人は居る。
学生の時分はみな、そういう気分を感じたことがあるのだと思う。
夏休みの宿題なぞ計画を建てるまでもなく終了させてしまったり、
あるいはその逆に、最後の週になって初めてもどうにか終わらせたり。
そんな風に、計画がなくとも素敵な夏休みの思い出を作ることはできていた。
しかし、歳を重ねるごとに「計画」が必要になってくる。
それは外側からの要請であり、内側からの要求でもある。
何故だかわからないが、大人には「計画」が必要らしい。
◆計画は未来を記す?
計画には、少なからず「未来」について記述がなされる。
5日後にユッキーが告白してくれるとか、計画の果てに人類を補完するとか。
そんな風に考えると、「担保としての未来」を大人は要求するのかもしれない。
ユッキーが5日後に告白しなければ、問い詰めるだろう。
人類が補完されなければ、……どうなるだろうか。
まぁ、計画に記した「未来」を元に責任を追及するわけです。
ノルマが達成できていないとか、1ヵ月前に言っていたことはどこにいったの、とか。
だから、
誰かのために作る「計画」には責任が伴う。
計画を守らなかった先にあるのは「処罰」だ。
ただし、
自分のために作る「計画」には責任は伴わない。
計画を守らなかった先にあるのは「後悔」だけだ。
この2つの計画を区別して考えると人生が少し楽になるかも。
◆誰かの為の「計画」
おそらく、これが一番多く作ることになる「計画」であるだろう。
「在るべき自分」のためではなく、「誰かの為」に作られる計画。
この場合、「計画の果てにあるゴール」を担保にすることになる。
だから、何よりも「達成出来る事」が重要になる。
何故なら、この計画は「自分」よりも「他人」を優先する計画だからだ。
「他人」とすると曖昧になるので、「結果」としよう。
この計画には「結果」が必ず求められる。
故に、この計画には「結果」が必要であり、それは達成させられなければならない。
今やっている「俺ガイル2期」なんかがそろそろ良い例になるんじゃないだろうか。
詳しいことは書かないが、あの場にも「計画」はあったのだと思う。
後は、「.huckGU+」の彼だろうか。
彼は「結果」の為に行動し続け、その果てに「結果」を実現した。
その場に彼は居なかったがな。
もっと、卑近な例を出すと「夏休みの宿題」だ。
夏休みの終わりに課題を提出するという計画。
その細部は個人に委ねられるが、アレも結果を求められるモノだ。
そんなわけで、
計画を考えるうえで大切なのは、「誰の為」であるのか、ということだ。
みんなのために作られる計画を私有化してしまえば、「どうしてお前の成長を手伝わなきゃならんのだ」となる。
それを理解した上で、計画を建てなければならない。
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もう少し面倒なのが、「他者は居ないが、結果は求められる計画」だ。
例えば、「大学受験に向けたスケジュール」とか「ダイエットのスケジュール」とか。
頑張った過程よりも、達成された結果を求めてしまう類のもの。
これこそが「意識低い系」の敵である。
上述した計画を誤魔化しもって生きるのが「意識低い系」である。
責任や、問題が即座に顕在化しない問題にはどう立ち向かえば良いのか。
意識高い人向けに書かれた本によると、
「達成できなかった未来を想像しみなさい」とか言われる。
××大学に入学できなければ、底辺に行くことになるのだ、とか。
この勉強を避け続けると、いつまでも昇進できないのだ、とか。
吾輩はバカボンのパパなのだ、とか。
あるいは、その逆で、「達成できた未来を想像してみなさい」とか言われる。
そんなことをしても無駄なのは、当人が一番知っている。
実害から生じた被害妄想や、現実にある恐怖や幸福でもない限り、行動にはならない。
「虚」は当人にとって都合の悪いようにしか働かないものである。
では、そんな面倒くさい人間が、「そういう計画」に向き合うにはどうしたらよいのか。
●在るべき自分、在りたい自分
一番の問題は、「計画」と「自分」が結びついていないことにある、と私は考える。
別の言い方をすれば『自分の未来が計画に描かれていない』という感覚だ。
どこか、他人事のような、そんな感覚。
理想としては、
「在るべき自分」が「計画の上」あるいは「計画の延長線上」にあってほしいものだ。
だが、
面倒な人間はそういう「在るべき自分」が欠落している。
対して、
ゲームやアニメの主人公は「在るべき姿」を持っている。
例えば衛宮士郎は「正義の味方」、天海春香は「トップアイドル」みたいにさ。
彼や彼女と我々との違いはそれほど大きいものではない。
それは多分、みんな気が付いている。
ただ、我々はそういうものに気が付けなかっただけだ。
私、まだはっきりした夢がないんです。
それでも岸さんみたいに夢が見つかるでしょうか。そうだね、あなたたちくらいの時は出会うものすべてがきっかけになり得ると思うの
そのことに気づけば、その沢山の中から大切なモノをちゃんと捕まえられるんじゃないかしら
――ひだまりスケッチ
何も気が付かず、何も捕まえられないまま過ごせば、意識低い人の出来上がりだ。
●未来を欠落した人間
「在るべき自分を見つけましょう」なんてことは言わない。
それが理想だが、どこかにある言葉だけで見つけられるなら苦労はしていない。
だからいっそのこと、探さなくてもいいのだと、思う。
「在るべき自分」は唐突に目の前に現れる、そんなもんだと思う。
面倒くさい人間って、「在るべき自分」とか、「夢」とか、物事を重たく考えてしまう。
「在るべき自分」を裏切ってはならないとか。
「愛」は永遠でなくてはならないとか。
「友情」に嘘はあってはならないとか。
物事を重く考えすぎるせいで、多くの出来事を「否定」してしまう。
「真実」以外は愛せない、本当に面倒くさい人間だ。
◆自分の為の「計画」
話が逸れてしまったので、戻そう。
当事者意識が持てるレベルまで「ゴール」を近づける、というのが今の私の答えだ。
大多数が認める幸福と、自分が求める幸福がイコールにならない人間はこれが良いのではないかと思う。
端的に言うと、自分の必要なレベルまで落とせということ。
料理が出来るとカッコいいっぽい!、から、ビーフジャーキーが食べたい、へ。
英語が出来ると役立つっぽい!、から、海外のゲームをやりたい、へ。
会計が出来ると良いっぽい!、から、自分の会社は大丈夫だろうか、へ。
プログラミングっぽい!、から、この部分だけ自動化したい、へ。
……未来に繋がる基本的なサイクルは、
「行動→拡がる→もっと知りたい」であると思っている。
例えば、こんな感じ。
【動機:文章を書きたい】
文章を書く→書き方や魅せ方の存在を知る→書き方を勉強したい!
行動によって世界が広がり、その世界をより知りたいと願う。
そのサイクルによって、より深く、広く世界に没頭していく。
だがこれは、当事者だからできることだ。
自分のコトでない限り、拡がる世界を前に面倒くささが優先する。
終わりが見えない、終わりが果てしない、場合に人は妥協してしまう。
そして、その難易度が高ければ高いほど、人は諦めてしまう。
だからこそ、
自分が当事者になれるレベルに落としておく必要がある。
自分が当事者であると思いだせる何かを手にしておく必要がある。
そうすることによって、計画に意味が生まれる。
◆終わりに
計画遂行のために、「褒美」や「処罰」を与えるというのがある。
確かに、それは効果的で「尻を叩いて」貰えば通常よりは進む事が出来る。
が、結局それは「一過性」なものでしかない。
当事者にならない限り、全ての計画は私の上を通り過ぎていく。
ありていに言えば、満たされない。
他人のためならば「一過性」でも構わない。
その計画はその時のためにあるのだから。
だが、自分の為の計画はその先の未来に繋がっていく。
計画を終わらせないためには、「当事者」になるしかない。
それが、今の私の結論。